太田述正コラム#4812(2011.6.16)
<映画評論25:わが命つきるとも(その2)>(2011.9.6公開)

3 トマス・モアという謎

 (1)序

 この映画は、トマス・モア(Thomas More。1578〜1535年7月6日)の晩年をほぼ史実通りに描いた演劇(B)がもとになったイギリス映画(C)であり、米国のアカデミー賞で数々の賞を受賞したわけですが、それがどうしてイギリスでつくられ、どうして米国でこんなにウケたのか、ということが私にとっては謎でした。
 もちろん、この映画の監督やスタッフや俳優が頑張ったということもあるに違いありません。
 しかし、トマス・モアは、カトリックの立場で、ヘンリー8世による英国教の設立に反対して「殉教」した、いわば時代の流れに逆らった人物です。
 イギリスでは、そして米国でも、カトリックは反感と侮蔑の対象であり続け、最近でも反カトリック感情が残っていることも思い起こされます。
 それだけに私にとっては謎であったわけです。
 私がとりあえず出した答えは、トマス・モアの「殉教」が、(ヘンリー8世とその一人息子のエドワード6世による英宗教改革、次いでヘンリー8世の長女のメアリー1世による反宗教改革を経て、)ヘンリー8世の次女エリザベス1世による宗教的寛容の時代が到来することに資したと言えそうであるところ、イギリス人も米国人もおおむね同じように考えているからなのではないか、というものです。
 しかし、私が確信が持てなかったのは、モアがいかなる意図の下に、避けえたにもかかわらず「殉教」を選び取った(後述)のかでした。
 そんな折、冒頭で紹介した米大学助教によるコラムを読んで、私は、モアは、自分が「殉教」することが、宗教的寛容の時代の到来に資することを期待して、あえて「殉教」を選び取ったのであろうという私が抱いた仮説が正しいことの確信が持てたのです。
 以下、そのことをご説明したいと思います。

 (2)『ユートピア』の著者としてのトマス・モア

 日本人がトマス・モアについて通常知っているのは、『ユートピア』の著者としてぐらいでしょう。
 そのユートピアには、モアは、離婚が自由で安楽死が認められ、妻帯した僧侶も女性の僧侶もいるとしていますが、これは敬虔なカトリックであった彼が抱いていたはずの信条とは対蹠的なものです。
 また、ユートピアは、そもそも宗教的に寛容な社会でもありましたが、これは、大法官(Lord Chancellor)(コラム#927、1334、1400、2482、3828)になった彼がプロテスタントを迫害したことと背馳していますし、法律家を批判的に描いていることも、やはり法の元締めとも言うべき大法官にまでなった人物とは思えない筆致です。
 更に、田舎で土地は公有で私有財産が認められない共同生活を送るユートピアの住民と、(投獄されるまでは)大都会での邸宅で何不自由ない人生を送ったモアとは重なり合いません。
 モアが風刺譚ないし冗談話としてユートピアを上梓した、という見方があるのはそのためです。
 他方、ユートピアはモアの本心を吐露した作品であるとする声も昔からありました。(注4)

 (注4)「カール・カウツキーは、『トマス・モアとそのユートピア(Thomas More and his Utopia)』(1888年)の中で、『ユートピア』は前近代欧州における経済的社会的搾取に対する巧妙なる非難であって、モアは、社会主義思想の初期における発展に貢献した主要知識人の一人である、と主張した。・・・
 <また、>ウィンストン・チャーチルは、『英語諸国民の歴史(A History of the English-Speaking Peoples)』<(1956〜58年)>の中で、「教会統治における英国王の至上性に対するモアとフィッシャー(Fisher)の抵抗は気高く英雄的な立場だった。彼らは既存のカトリック教会のシステムの欠陥は承知しつつも、キリスト教圏の一体性を破壊しつつあった攻撃的ナショナリズムを憎み恐れたのだ」とモアについて記している。」(D)
 なお、カウツキーは、チェコ系ドイツ人マルクス主義者のKarl Kautsky(1854〜1938年)であり、レーニン主義/スターリン主義を批判し、社会民主主義を提唱した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Kautsky
 また、フィッシャーは、イギリス人枢機卿のJohn Fisher (1459-1469〜1535年6月22日)であり、モアと同じ理由で、モアより少し前にヘンリー8世によって処刑された。
 モアとフィッシャーは1935年に法王ピオ11世によって、同時に聖人に列せられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Fisher
 このように、「左」からも「右」からもモアを高く評価する声が出るのは興味深い。

 ちなみに、原作はラテン語で書かれており、ベルギーのオランダ語地域のリューヴェン(Leuven)
http://en.wikipedia.org/wiki/Leuven
で、モアの友人のエラスムス(Desiderius Erasmus。1466〜1536年)(注5)の協力を得て1516年に上梓されたものですが、この本が英訳されてイギリスで出版されたのは、それから実に35年後、モアが刑死してから16年後のエドワード6世治世下の1551年のことでした。
 (以上、特に断っていない限り、下掲に拠ったが、部分的にDも参照した。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Utopia_(book)

 (注5)「ネーデルラント出身の司祭、人文主義者、神学者。・・・終生カトリック教会に対して忠実であった<が、>・・・<その著>『痴愚神礼賛』はエラスムスの意図を離れて、反カトリック教会的書物として各国で利用されたため、のちにカトリック教会の禁書目録に加えられることになった。・・・トマス・モアとの親交やマルティン・ルターとの論争でも知られる。・・・1600年、今の大分県に漂着したオランダ船リーフデ号の旧名はエラスムス号であった。同船は、・・・ウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン・・・が乗っていたことで有名である。同船の船尾には、エラスムスの木像が付けられていた。細かな経緯は不明だが、船の旧名と関係していることは類推できる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%82%B9

(続く)