太田述正コラム#4806(2011.6.13)
<映画評論23:ヴィクトリア女王 世紀の愛/眺めのいい部屋(その2)>(2011.9.3公開)

3 眺めのいい部屋(A Room with a View)

 (1)序

 『眺めのいい部屋』(A Room with a View)は英国映画(1985年)であり、E・M・フォースター(コラム#84、484、3535)原作の同名の小説(1908年)を映画化した作品です。
 この映画は、1987年のアカデミー賞に8部門で候補となり、脚色賞、衣装賞、美術賞の3部門で受賞しました。
 オープニングにはプッチーニ(Puccini)のオペラ「ジャンニ・スキッキ(Gianni Schicchi)」(注1)のアリア「私のお父さん(O MIO BABBINO CARO)」(キリ・テ・カナワ(Kiri Te Kanawa))(注2)が使われています。
 (以上、特に断っていない限り、Hによる。)

 (注1)「主人公の中年男ジャンニ・スキッキが、大富豪の遺産を巡る親戚間の騒動と、若い男女の恋を見事に解決するさまをコミカルに描いた喜劇。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%AD
 (注2)十八番なのか、ユーチューブ上のキリ・テ・カナワによるこの歌曲の歌唱はあまりに多く、絞り込むのが大変だった。↓
http://www.youtube.com/watch?v=duI98XcwAck&feature=related
 NETREBKOのもどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=w0diDwHtATw&feature=related
 森麻季のも素晴らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=epIPrgmkNwo&feature=related
 なお、この歌曲の歌詞の邦訳は以下のとおり。
 「おお、優しい私のお父様、私はあの人が好きなの、とても好きなの。 私は ポルタ・ロッサへ指輪を買いに行きたいの、ええ本当に行きたいの。 そして私の恋が適わないものなら私は ヴェッキオ橋に行って アルノ川に身を投げてしまいます。 悩んでます、苦しんでます。 おお神様、私は死んでしまいたいです。」
http://www.geocities.jp/h_ikem/babbinom.htm

 (2)テーマは抑圧と自由の戦い

 この映画の筋を知りたい方は、英語ができるのであれば、原作についての解説(H)に詳しく載っているので目を通してください。
 なお、フォースターは、小説の上梓から半世紀経った1958年に、この小説の中で結ばれた男女の後日譚を書いていて、それも上記解説の中で紹介されていますが、読む必要は必ずしもないでしょう。
 さて、この映画のテーマ(当然原作の小説のテーマでもある)は、抑圧と自由の戦いであり、後者の前者に対する勝利です。
 そして、この映画(及び原作)は、このテーマに三つの観点から取り組んでいます。
 それは、見合い結婚対恋愛結婚、イギリス対イタリア、保守対革新、の三つです。

 --見合い結婚対恋愛結婚--

 映画の上記オープニング曲がまさにこのせめぎ合いを示唆しています。
 (ちなみに、この映画(及び原作)は、フィレンツェで始まり、イギリスに舞台が一旦移り、フィレンツェで終わります。タイトルの「眺め」とはフィレンツェのアルノ川の眺めのことであり、オープニング曲の舞台がフィレンツェであることも、この曲がこの映画で使われた理由でしょうね。)
 すなわち、様々な要件をクリアしたオブジェ(object)たる相手と結婚する(見合い結婚)のか、相手のありのままの姿(who one is)への愛情によって結婚する(恋愛結婚)のか、という問題です。
 この映画では、(原作同様、)二度の偶然の邂逅によって、それぞれ愛情が芽生え、深まった男女・・ただし、女性(主人公)の方は最後近くまでそんな感情を自分が抱いていることを認めまいとする・・が、女性の方は見合い結婚が決まっていたにもかかわらず、それを破棄して結ばれる、という設定になっています。

 --イギリス対イタリア--

 この映画(及び原作)は、ロンドンとその近郊に対するにフィレンツェとその近郊、という2か所が舞台であり、ヴィクトリア朝的な窮屈で性的に抑圧されたイギリスと、自由で性的に解放されているイタリアとが対比的に描かれます。
 ただし、イタリアは決して理想化して描かれてはいません。
 人目をはばからずいちゃつく男女が登場したり、フィレンツェのど真ん中のピアッツア(piazza)で突然殺人事件が起こったりします。
 しかし、イタリアでのこのような衝撃的な異文化体験によって、主人公は、次第に目覚めて行くことになるのです。

 --保守対革新--

 以上の二つの観点は、20世紀初頭のイギリスにおける保守(conservative)対革新(radical)の確執と後者による前者の克服へと止揚されて行きます。
 この映画の制作者(というより、原作の著者であるフォースター)は、これを、理想や自身の内面を発展させたり変化させたりすることができるところの革新的な人物と、それができず、そのままであり続ける保守的な人物とを対置させます。
 上流階級の主人公や、彼女と恋愛結婚する中流階級の男性等は前者であり、後者は主人公がお見合いをして婚約した上流階級の男性等は後者です。
 とりわけ、主人公は、婦人参政権(注3)運動が盛り上がっていた時期において出現しつつあったところの、イギリスの感じやすい若者の化身なのです。
 (以上、特に断っていない限り、Gによる。ただし、部分的にIも用いた。)

 (注3)イギリスで女性に制限選挙権が与えられたのは1918年、完全な選挙権が与えられたのは1928年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9

4 終わりに

 この二つの映画を併せて評論するとすれば、それはどちらも、ヴィクトリア朝を例にとって・・前の方の映画はヴィクトリア朝の前から始まり、後の方の映画はヴィクトリア朝直後のエドワード朝が舞台ですが・・イギリスの保守と革新は一見対立しているように見えるけれど、保守(王室、ないし上流階級)は外国(「ドイツ人」のアルバート、ないしイタリア人)の良い点を取り入れて、不断に自らを改革して行く柔軟性を持っている、ということをアッピールしている映画である、ということになりそうです。
 そして、この二つの映画は、改革の契機となったのが、革新志向の男性を選び取った女性の性衝動であることを描いている点でも共通していると言えるでしょう。
 つまり、この二つの映画は、片やほぼ史実を踏まえ、片や全くのフィクションではあるけれど、どちらも、イギリスとは何かについて考えさせる、究極のフェミニスト映画である、というのが私の結論なのです。

 Derek, is this what you meant?

(完)