太田述正コラム#4967(2011.9.2)
<戦間期日英関係の軌跡(その9)>

紹介すべき投稿も記事も・・新内閣の顔ぶれに関する記事を含め・・皆無、という世にも珍しい日なので、予定を変えて、シリーズ途中のものですが、今晩配信予定であった有料読者向けコラムを、急遽流用することにしました。(太田)

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 「ワシントン会議条約の一つである「中国の関税に関する条約」に基づいて・・・1925年10月26日、北京で関税特別会議<(コラム#4464、4500、4691)>が開かれた。・・・
 北京政府の財政基盤は非常に弱かった。そこでイギリス外務省は、・・・中国国内での流通の過程で<の>課税<(流通税(太田))>・・・を徐々に廃止することと引き換えに段階的に関税自主権を付与するという譲歩が必要であろうと考えていた。・・・関税から得られる税収は北京政府の数少ない確実な歳入源であった。一方<流通税>のためにイギリス商品は中国の国内を移動するにつれて価格が上昇し、・・・関税率自体が低いにもかかわらず、販売は妨げられていた。・・・<しかも、流通税は>地方が潤う一方で、・・・北京政府には歳入が入らない・・・。<ところが、>・・・日本は、・・・担保のある確定債権のみを有するイギリス<と違って、>・・・第一次世界大戦中の西原借款<(注20)(コラム#4502、4528)>に代表される<無>担保・・・債権を抱えていた<ため、北京政府が関税を上げてその関税収入が増えても、>それが無条件で中国に貸した資金の返還に結びつくわけではなかった。・・・

 (注20)「1916年・・・10月<に>首相とな<った>・・・寺内正毅(1852〜1919年)・・・<は、>閣議に諮ることなく蔵相・・・<、及び初代朝鮮総督時代以来の側近の>西原亀三[(1873〜1954年)、]と組んで、秘密裏に北京政権安徽派の段祺瑞<を支援することにした。>・・・
 借款の交渉は西原亀三・・・と曹汝霖(北京政府財務部長官)との間で行なわれた。日本国内の窓口は大蔵省(勝田主計大臣・広瀬豊作次官・大内兵衛理財局員)と興銀(土方久徴)、台銀(桜井鉄太郎)、朝銀(美濃部俊吉)らである。日本人関係者は大正14年までに責任をとらされ、全員退職している。
 また外務省と横浜正金銀行はこの借款に反対した。横浜正金はこの結果、満州と華北の政府出先との取引を妨害され事実上撤退を余儀なくされた。・・・
 内容は現金供与1億4500万円、武器供与3208万円、合計1億7708万円である。・・・
 内訳は
一、臨時軍事費特別会計5000万円余・・・武器供与(3208万円)が中心
二、大蔵省預金部(交通銀行借款)2000万円
 ・・・交通銀行とは、清国時代の1907年に、外国からの借款で建設された鉄道を買い取る目的で設立され、中国銀行と並ぶ、二大発券銀行であった。日本側は交通銀行を日中合弁としたい希望があったとされる。・・・
三、興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行1億円・・・電話・鉄道借款
であって、一は参戦借款ともいわれ、じっさいに参戦軍(3個師団/辺防軍)編成に使われた。武器供与とは国有財産である武器を、参戦軍に引き渡したものだが・・・実態は不明である。
 二についていえば、第一次交通借款500万円だけが返還された。大蔵省預金部とは、明治18年(1885)太政官布告を根拠と<して設置されていた>ものであったが、その運用する資金が預金部資金と呼ばれるようになった・・・。・・・
 三については、ほぼ全額が貸し倒れた。ただし興銀・台湾銀・朝鮮銀の3行は借款について日本政府から債務保証念書をとっていた(国会の承認はない)。・・・」
http://ww1.m78.com/topix-2/nishihara.html
 (ただし、[]内は下掲による。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8E%9F%E4%BA%80%E4%B8%89

 <ところが、>幣原<外相が>中国<への>関税自主権<付与>を北京関税特別会議の検討課題とすべきではないとエリオット駐日<英国>大使に語っていた<にもかかわらず、>・・・関税会議の冒頭で日本代表団・・・は、・・・関税自主権を・・・<、しかも、流通税>廃止を条件とせずに<中国に>与える・・・用意があると宣言した。・・・アメリカ代表団<も>すぐに<この>日本の提案を支持し、<この案>は可決された。・・・イギリス代表を務めていたマクリー<駐中国>公使<(注21)(コラム#4510)>は、<うっかりしていてこの動議に賛成してしまった上、この話を本国にすぐに連絡しなかった。>・・・

 (注21)Sir James Ronald Macleay。駐支公使:1922〜26年。
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Ambassadors_from_the_United_Kingdom_to_China
 英語ウィキペディアには彼のものはない。

 <ただし、>翌1926年・・・4月に北京の段祺瑞政権が崩壊すると、6月に北京は無政府状態となり、7月には関税会議自体が無期延期となってしま<う>。」(85〜87頁)

→幣原外相が抜け駆け的かつ背信的に支那への関税自主権付与を日本代表団に提案させたことは、結果的に実現こそしなかったけれども、英国政府の日本への不信感を一層増幅したに違いありません。そのしっぺ返しをすぐに日本は受けることになるのです。
 なお、マクリーについては、以前、(コラム#4510で)褒めたことがあるのですが、この無能・怠慢さが彼の実態だったのかもしれません。同じ時期の香港総督や英東洋艦隊司令長官(後出)に比べると、英本国による人事に遺漏があった、と言えるのかもしれません。(太田)

 「<他方、>上海のイギリス人実業家たち<やジャーナリストたち>は、・・・北京政府の力は弱く、広州の国民政府はあまりに反英的で<あり、>・・・中国の官憲は条約で定められた義務に無関心になっている、と<し、>・・・日本からの援助を望み、日本に好意を示し続けた。1926年6月・・・在中のイギリス系企業代表の会合が上海・・・で開催された。<そして、>・・・「・・・合衆国の・・・積極的協調はなくとも黙認さえ得られれば、日本と積極的に協調することを良しとする」<と意見集約された。>
 ただし、彼らの意見がイギリス外務省を動かすことはなかった。外務省極東部の一員<は、>・・・イギリスの貿易商たちが、5年前にはワシントン会議に向け日英同盟をしきりに弾劾したことに目を向けた。・・・
 <結局、>この時期、中国ナショナリズムの高揚に直接さらされた現地のイギリス人と日本人が類似した情勢判断を示し、日英両国の協調を望んだのに対し、本国の政策決定者どうしの協力はそれほど密接ではなかったといえるだろう。」(88〜90頁)

→英国にとって支那はその死活利益がかかっていたわけではなかったけれど、日本にとって支那は対赤露安全保障上も経済上も死活的利益がかかっていました。従って、日本の外務省が在支日本人・・及びここでは触れるだけにとどめますが帝国陸軍・・の意向を尊重しなかったのはとんでもないことでした。(太田)

 「<この間も>広州香港間の<対英>ボイコット<が続いていた。>・・・レオポルド・エイマリー(Leopold Amery)<(注22)英>植民地相は<これ>を、形を変えた戦争状態も同然と評していた。なお、植民地省は外務省が最も密接に連絡を取った省であり、香港総督は外相ではなく植民地省の指揮下にあった。・・・

 (注22)Leopold Charles Maurice Stennett Amery。1873〜1955年。インドでイギリス人の父とハンガリー系ユダヤ人の母の間に生まれる。ハロー校でチャーチルと同期。オックスフォードの優等生でヒンディー語、仏・独・伊語、ブルガリア語、トルコ語、セルビア語、ハンガリー語をしゃべれた。ジャーナリストを経て保守党の政治家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Amery

 サー・セシル・クレメンティ(Sir Cecil Clementi)<(注23)>香港総督・・・は、ボイコットが終息するのは次の三つの場合だけだと考えた。第一は、広州国民政府の内部分裂、第二は、敵対する軍閥による広州占領、そして第三は、イギリスの、可能であればアメリカ、日本、フランスと協力の上での攻撃、という三つの可能性であった。・・・

 (注23)インド生まれ。1875〜1947年。香港総督:1925〜30年。海峡植民地総督兼司令官:1930〜34年。オックスフォード大学の優等生。サンスクリット等を専攻。植民地行政官となる。広東語、北京語に堪能。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cecil_Clementi

 <1926年>8月28日、広州のボイコット組織の船が英米人各1名に発砲し、そのモーターボートを拿捕するという事件が起こった。・・・<英>首相・・・の決定を経て、・・・「海賊」行為防止のための強硬手段を認める支持がブレナン<英広州総領事代理>に送られた。海軍省は<香港の>アレクサンダー・シンクレア<海軍>・・・大将(Admiral Sir Edwyn Alexander Sinclar)<(注24)>・・・に、すべてのボイコット監視船を捕獲し航行不能にするように司令した。・・・イギリスはアメリカに提携行動を欲するかどうか尋ねた。

 (注24)Admiral Sir Edwyn Sinclair Alexander-Sinclair。1865〜1945年。水兵からのたたきあげ。英東洋艦隊司令長官(Commander-in-Chief, China Station):1925〜26年。当時は海軍中将。その後大将に昇任し、英艦隊司令長官(Commander-in-Chief, The Nore)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edwyn_Alexander-Sinclair

 広州湾での軍事行動はアメリカの回答を待たずに9月4日に実施された。ボイコット組織の船はすべて拿捕され、航行不能となり、川岸のボイコット基地沖に武装汽艇(launches)、イギリスの埠頭に沿って砲艦がそれぞれ配置された。効果は絶大だった。・・・
 北伐への集中を望んでいた広州政府は、・・・ボイコットを10月10日以前に終結させるが、ボイコット組織解体に必要な資金徴集のため、・・・普通品輸入に対しては2.5パーセント、奢侈品輸入に対しては5パーセントの特別消費税を、・・・すべての<国>の商品に対して課す<と言ってきた。イギリス側はこれに暗黙の了解を与えた。>・・・10月、広州政府は自主的に反英ボイコットを中断し<た。>」(90〜94頁)

→この程度の軍事行動でも顕著な効果を発揮したわけであり、列強、少なくとも日英が協調してもっと早くから軍事行動をとっておれば、と切歯扼腕する思いです。それを拒否し続けた幣原外相の責任はまことに重大です。(太田)

(続く)

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<太田>(ツイッターより)

 訂正:
 上海での1924年の五・三0事件の頃の英国の反赤露度は、労働党が容共ではないかとの疑いに基づく危機意識を過半の英国人が抱くに至っていて、既に日本

 上海での1925年の五・三0事件の頃の英国の反赤露度は、対ソ不信感に加えて労働党への疑いを過半の英国人が抱くに至っていて、日本

 ガーディアンがでっかい記事で英国のフォーク歌手ローラ・マーリングをユーチューブ入りで紹介してた。ギターもうまいね。
http://www.guardian.co.uk/music/2011/sep/01/laura-marling-interview-confidence
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太田述正コラム#4968(2011.9.2)
<戦間期日英関係の軌跡(その10)>

→非公開