太田述正コラム#4796(2011.6.8)
<映画評論22:300(その2)>(2011.8.29公開)

 では、米英での批判にはどのようなものがあったのでしょうか。
 私には、彼らの批判の大部分は、この映画がファシズムを礼賛している、という一点に収斂させることができるように思いました。

 ファシズム礼賛であるとの批判の一歩手前の批評から行きましょう。
 元エンサイクロペディア・ブリタニカの編集長のロバート・マクヘンリー(Robert McHenry)は、古典ギリシャ時代に既に始まっていたスパルタ理想視がローマ人によってふくらまされ、次第に本当のスパルタとは似ても似つかぬものとなって現在に至っているが、この映画はまさに、このようなスパルタ観に拠っていると指摘しましたし、この映画でギリシャ人の名前の発音等を指導したケンブリッジ大学のギリシャ史教授のポール・カートレッジ(Paul Cartledge)は、武勇の誉れの規範の男性による実践と女性によるその支援について、この映画は的確に描写しているが、その西側が善玉で東側が悪玉であるという単純な見方に対しては疑問を投げかけるとともに、アテネを貶めているきらいがあることにも違和感を表明しました。
 例えば、映画の中でスパルタ王のレオニダス(後出)が、アテネ人を「少年愛者達」と形容したところ、スパルタ人自身がその教育体系の中に制度的男色を組み込んでいたのだから、そんなことを彼が言うはずがない、というわけです。

 次に、ファシズム礼賛であるとの批判そのものをとりあげましょう。
 ニューヨーク・ポスト紙の映画評では、この映画は、さぞかし「ヒットラーに心酔した若者達(Adolf's boys)」のお気に召したことであろうよ、と指摘されましたし、米スレート誌の映画評では、人種虐待(race-baiting)的ファンタジーとナショナリスティックな神話が全体戦争への誘因として機能しうることを示す教科書的映画である点で『永遠のユダヤ人(The Eternal Jew)』(注3)に比肩しうる、と記されました。

 (注3)ナチスドイツのゲッペルス宣伝相が1940年に制作した宣伝映画。ドイツ語の表題は「彷徨えるユダヤ人(Der ewige Jude)」。撮影された部分とドキュメンタリー部分とが組み合わされた形式。1934年制作の英語名が同じ英国映画がスペインの異端審問等によって迫害されたところの被害者たるユダヤ人を好意的に描いたことに対抗する含意があったのではないかとされる。
 この映画の中で、アーリア人は肉体労働と価値の創造に生きがいを見出すのに対し、ユダヤ人はカネと逸楽的生活様式に愉楽を見出すものとして描かれている。
 現在のドイツでは、基本的にこの映画の放映は禁止されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Eternal_Jew

 フロリダ州のオーランド・センティネル(Orlando Sentinel)紙の映画評では、この映画は、まさにスーザン・ソンタグ(Susan Sontag)(注4)の定義するところの「ファシスト芸術」そのものである、と指摘されました。

 (注4)1933〜2004年。ユダヤ系米国人。著述家・文学理論家・公共的知識人・政治活動家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Susan_Sontag

 ファシスト国家であるナチスドイツは非アーリア人に対する人種主義で悪名高いわけですが、映画『300』では、原作の絵入り歴史小説どおり、ペルシャ人は怪物的で野蛮で悪魔的な一群(horde)として描かれ、クセルクセス王は両性具有者(androgynous)として立ち現れるところ、これはペルシャがスパルタ軍の男性性と完全に対照的な存在であることを強調していると評されています。
 イラン政府の批判にもあったように、私自身、この映画の最初の方に出てくるところの、クセルクセスのスパルタ降伏勧告を告げに来たペルシャの使者が黒人であったり、ペルシャ兵の大部分がアラブ人のような風貌といでたちであることに強い違和感を覚えたところです。
 ある映画評論家が、この映画において、ペルシャ人は、西側におけるアジアとアフリカの諸文化のステレオタイプの時代錯誤的イメージの最大公約数の体現者として扱われている、的な指摘をしていますが、私も全く同感です。
 また、ナチスドイツは、身内たるアーリア人であっても、障害者達を厭い、優生学的抹殺の対象とした(コラム#省略)わけですが、障碍者問題のある専門家は、この映画における佝僂病者の扱い方は、健常者優先どころか、反障害者としか形容できない、と批判しているところです。

 もとより、このような、この映画はファシズム礼賛であるとの唱和に対する反論もないわけではありません。
 この映画のストーリーは、貧しい小さなギリシャがペルシャという大国によって侵略を受けるというものであって、スパルタを現代の超大国たるナチスドイツになぞらえるのはいかがなものか、というのがその一例です。
 この映画の脚本を書いたフランク・ミラー(Frank Miller)は、「スパルタはパラドックシカルな人々だった。彼らはギリシャ最大の奴隷所有者達だった。しかし、同時に、スパルタの女性は<ギリシャの中では>最も強い権利を持っていた。彼らは色んな意味でファシスト的だったけれど、民主主義の没落に抗する砦でもあったというのはパラドックスだ。今日の米軍を引き合いに出して比較すれば、赤いマントを纏ったスパルタ人は我々の特殊作戦部隊のようなものだ。彼らは物凄い戦士倫理を身に着けた殆ど超人間的な存在であり、ギリシャの中で異論なく最も優れた戦闘者達だったのだ。」というちょっとひねった反論を行っています。
 (以上、特に断っていない限り、Aによる。)

 しかし、私に言わせれば、以上ご紹介してきたような議論は、まだこの映画の根源的な問題性から目を逸らせているのです。
 私の言わんとするところをご理解いただくためには、ミラーの言にも少し出てきましたが、スパルタがいかなるポリスであったのかをもう少し詳しく見るところから始めなければなりますまい。

(続く)