太田述正コラム#4758(2011.5.20)
<イアン・ニッシュかく語りき(その2)>(2011.8.10公開)

 「朝鮮の将来という問題については、<当時の>英自由党政府の本能は、日本が唱えているところの大義である「改革」に乗ろうじゃないか、というものだった。
 ・・・1895年3月13日・・・ラセルズ(Lascelles)(サンクト・ペテルブルグ)からキムバレー(Kimberley<(注1)>)宛<の公信で・・・外交官<のラセルズ>は、特徴的にも次のように記している。
 …[日本人達]は自分たちの国と似通った存在にするためにあの国[朝鮮]に諸改革をやらせたいという意図をかねてより表明してきた。」(37、52)

→戦前の日本の対外政策が人間主義的であったと私がかねてから主張していることを思い出してください。(太田)

 (注1)John Wodehouse, 1st Earl of Kimberley(1826〜1902年)。英外相:1894〜95年。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Wodehouse,_1st_Earl_of_Kimberley

 「<1894年>7月16日、<英国が諸大国の中で真っ先に、不平等条約であった日英修好通商条約を抜本的に改正して平等条約とした日英通商航海>条約<を日本との間で>調印した。」(40)

→日清戦争勃発が目前という状況下でこの調印がなされたわけです。(日清戦争が始まったのは7月25日。ただし、相互に宣戦布告がなされたのは8月1日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
 当然、英国が日本に肩入れをした、と支那等が受け止めることは覚悟の上で、あえて英国は調印を行ったと考えるべきでしょう。(太田)

 「キムバレーは、<1894年>7月30日に<このように記している。>・・・
 英国とロシアが朝鮮問題の解決を図るとなると、我々が朝鮮人達について一義的責任を負うことになってしまうだろう。これはあまり結構なことではない。結局のところ、ロシアが積極的干渉を控えるならば、支那と日本という二つの悪がやりたいようにやらせる方に心が動く。」(39)

→英国政府上層部は、実際のところ、日本の対外政策の人間主義性など信じていなかったものの、ロシアよりはマシな日本を、いわばロシア抑止の手ごまとして用いようと考えた、ということがうかがえます。(太田)

 「7月24日<(注1)>・・・高陞号(Kowshing)<事件が起こった。>」(41)

 (注2)ロンドン時間でないとしたら、7月25日の誤りであろう。

→日清戦争開戦初日、豊島沖海戦の最中にこの事件が起こったわけです。
 「<帝国海軍の部隊は、>高陞号(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。高陞号は、朝鮮にむけて清兵約1,100人を輸送中であった。坪井の命により、「浪速」艦長東郷平八郎海軍大佐が停船を命じて臨検を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間におよぶ交渉が決裂したため、東郷は、同船の拿捕を断念して撃沈に踏み切った(高陞号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助し、清兵約50人を捕虜にした。・・・
 高陞号撃沈について一時、イギリス国内で反日世論が沸騰した。しかし、イギリス政府が日本寄りだった上に、国際法の権威ジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホランド博士によって国際法にのっとった処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論が沈静化した。」(ウィキペディア上掲)
 帝国海軍の品行方正ぶり、英国政府や指導層の親日性と冷静さは印象的ですね。(太田)

 「<日本は戦いを有利に進めつつ、>朝鮮のための改革計画を推進し続けていた。その一義的責任は東京の外務省の政務局(Political Affairs Bureau)にあり、同局は、4か月かけて朝鮮改革計画を準備するとともに、日韓両国盟約(Japan-Korea offensive-defensive alliance)を起草した。後者は最終的に1894年8月26日に調印された<(注3)>。これらの計画はソウルの大鳥<圭介(注4)>公使によって実施に移されることになっていた。彼はある程度の裁量権を与えられていた。諸大国は、この過程を警戒感をもって見守っていた。」(43〜44)

 (注3)(<>内を除いて)最近の韓国の資料だが、「1894年2月の東学農民軍の蜂起により危機に直面した朝鮮政府は、清に援軍を要請した。すると、日本は「天津条約」の・・・出兵条項<「将来朝鮮に出兵する場合は相互通知(「行文知照」)を必要と定める。・・・この「行文知照」について日中の見解が分かれ異論が生じた。「照」の字は当時中国官庁では「(中国の)天子の了解を得る手続き」と理解され、中国側では両国共に中国の天子に「照会」をとるとも解された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1885%E5%B9%B44%E6%9C%88)
>をあげて、朝鮮に出兵した。そして、1894年6月11日、東学農民軍と朝鮮政府の間で「全州(チョンジュ)和約」が成立し、蜂起した東学農民軍が自主解散した<が>、在朝日本公使館は、朝鮮側の撤兵要求を拒否し、その上、第3師団と第5師団など7〜8千人日本軍を駐留させた。
 その後、日本は朝鮮政府に対して清との関係の見直しと、行政・司法・財政分野に日本が提案した制度改革案を受け入れることを要求したが、朝鮮政府はこれに反発した。すると、日本軍は1894年7月23日、・・・景福宮を襲撃して、景福宮一体の朝鮮側の軍事施設を占領し武器を押収するなど、朝鮮軍の武装解除を<行っ>た。
 そして、・・・1894年8月20日に両国間で「暫定合同条款」が締結され、その結果、日本が京釜線と京仁線の鉄道敷設権を保有することになった。また、8月26日に締結された「朝日盟約(大朝鮮大日本両国盟約)」には、朝鮮政府は韓半島における日本軍の移動や食料準備など、戦争遂行を支援しなければならないという内容が盛り込まれた。」
http://japanese.historyfoundation.or.kr/?sub_num=46 
 なお、李氏朝鮮が国号を大韓帝国としたのは1897年から
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E5%B8%9D%E5%9B%BD
なので、1894年に締結されたこの盟約を、ニッシュのように(ローマ字表記で)日「韓」両国盟約と呼ぶのはおかしいのではないか。
 (注4)1833〜1911年。西洋軍学者、幕臣出身。「1889年・・・6月3日に駐清国特命全権公使。11月に着任。1893年・・・7月には朝鮮公使を兼任し、翌年6月には朝鮮へ赴任。大院君に対して朝鮮の近代化を建言し、朝鮮の反日派から発砲を受けるなど日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たった。1894年・・・10月11日、公使解任。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E5%9C%AD%E4%BB%8B

→ 現在の韓国では、「「大日本対朝鮮両国の盟約」第1条は、この戦争が「朝鮮の独立のためのもの」と強弁する。」
http://japanese.joins.com/article/232/118232.html?sectcode=A00&servcode=A00
と「強弁」という言葉を使っていますが、韓国の人々が当時の日本の対外政策の人間主義性を理解する日がいつかやって来ることを信じています。(太田)

(続く)