太田述正コラム#4746(2011.5.14)
<戦間期の日英経済関係史(続)(その3)>(2011.8.4公開)

 「<当時の>大多数の英国の経済評論家は、日本経済は全体的にみてかなり脆弱であると考えていた。ある推計によると、一人当りの所得と投資で日本は18カ国中で最下位であり、それぞれお英国の10分の1、5分の1であった。・・・
 この時期における日本経済についての英国の経済評論家の主要な関心は、人口の規模とその急速な増加に向けられていた。・・・日本の人口問題の解決には急速な工業化を必要とすると主張したトレヴォー・ジョンズ<(T.Johnes)(210)>の説を疑う者は、1920年代初頭にはほとんどいなかった。しかし、英国の在日外交官は、・・・社会的緊張を悪化させるという意味で、国内の人口圧力を重視するものはほとんどいなかった。かれらは、日本の所得水準は上昇しており、農産物価格の下落と生活費の上昇によって国内の購買力<が>減少してい<るとの見解は誤りである>と主張し、近代産業部門でみられる労働条件の改善は、日本の経営者が合理的経済法則を適用し、労働者の雇用と維持を求めた結果であると論じた。かれらは、日本の労働条件が改善されているという認識をもちつづけ、社会的不安が重要であるという『ザ・タイムズ』紙の記事を否定したのである。・・・
 1920年11月に、・・・在日商務官<の>・・・クロウ<(E.F.T.Crowe)(210)>はつぎのように論じている。日本は産業政策を国家規模で積極的に推進すべきであるという強い信念をもって<いる>。・・・
 <そのことへの>英国人の懸念の大部分は、それが中国における英国の政治経済的利害の侵害に利用されるのではないかという不安から生じていた。しかし、他方で、日本政府が企業との連携を望むことは、本来道義に反するものではなく、英国の産業や政治的利害を侵すものではないと、日本の立場を擁護しようとする人々もいた。事実、クロウは、日本の商業政策はドイツのように「すべての部分が明確な目的をもった有機的統一体」として統合されていないと主張し、日本の政府・企業間関係を、英国人が警戒していた第一次大戦前のドイツと区別しようと苦心した。さらにクロウは、日本の産業発展は、産業政策の成果というよりは、「時宜を得た」ものであったと主張した。」(192〜194)
 「日本の綿工業にとって、1920年代中後期は著しい発展の時期であり、先進企業では急速に新技術への切替えが進んだ。その最大の要因は、1929年に実施予定の婦女子の深夜業禁止を前提とする労働生産性の維持の必要性、1927年の金融恐慌による不安、そして新興の中国綿工業との競争に対する懸念であった。しかし、日本の綿工業の強い競争力の一つの要因として付加すべきことは、日本の繊維機械産業が優位を維持しつづけたこと、とくに1924年に発明された豊田式自動織機が導入されたことである。日本の賃金率は依然として英国よりも低かったが、全体的に所得と労働条件には改善がみられ、経営者は費用効率化を追求し、新技術の導入は紡績・織布両部門で大幅な生産性の上昇をもたらす余地を残していた。1920年代の日本の綿製品輸出の拡大は、こうした改善の結果であった。・・・
 1920年代末に英国の在日外交官は、日本の綿製品輸出の増大は産業内部の改善・・・紡績・織物業における労働生産性と効率性の向上・・・の成果であって、国内外の経済要因が重なったことや不公正な競争の結果ではないことを・・・いちはやく認識して<おり、そのこと>・・・を指摘しようと苦心した。」(197、200)

→既に何度も申し上げていることですが、英国の外交官はまことに優秀ですね。
 彼らは、帝政ドイツ(とその後のナチスドイツ)の全体主義的統制経済とは違って戦前の日本の経済は一貫してアングロサクソン的資本主義経済に近かったことをはっきり認識していたわけです。
 ただし、さすがの彼らも、惜しいかな、1920年代中後期以降、日本経済が大きな変化を遂げたところ、それが(collusiveではあってもcorruptiveではない関係にある者達の激烈なcompetitionによって特徴づけられるところの、)日本型政治経済体制化であったことまでは理解することができなかったようです。(太田)

 「ランカシアの認識が決定的に変化する契機となったのは、1929年のピアス<(A.S.Pearse)(213)>による・・・報告書の刊行であった。ランカシアで、日本の賃金が相対的に低いことに疑問をもつものは誰もいなかったが、ピアスの結論では、日本の労働者の生産性がランカシアよりも高いということについてはほとんど疑問の余地がなかった。事実、ホルロイドは報告書の序言でこの点にふれ、ランカシアの織物工の平均織機数4台に対して、日本は5.5台であったと率直に述べている。・・・
 <その上、日本は英国に比べてはるかに低賃金であったのだからたまったものではない。
 そして、こういった情報が共有された結果と言えるだろうが、英国で>1928・29年頃から綿工業への投資額<が>減少し<たことが示すように、>・・・ランカシアのとるべきもっとも経済合理的な方法は「逃避」であると結論づけ<られたわけだ。>」(203〜204)
 「<当時の>英国人・・・の・・・「個人主義的な」資本主義の硬直<的な>・・・経済的イデオロギーに起因する<ところの、>・・・均衡財政と低関税という財政の通説に対する信念は、日本経済<の正確な認識に到達することを遅らせ、>・・・日本の産業政策を<当初>過小評価<することにつながっ>た<けれど、>・・・在日外交官や経済評論家、そして最終的には産業界も、日本の経済や産業発展の確固たる正確なモデルを手にいれた。したがって、日本の綿工業との競争における英国の敗北は、英国人の認識が本質的に誤っていたからではなく、英国綿工業内部での失敗に関連していた。」(208)

→要するに、1920年代中後期において、既に日本は、工業技術面でも部分的に英国を凌駕し始めていただけでなく、マクロ経済政策やミクロ経済政策の面でも、過度に個人主義ではないところの、より柔軟な政策をとるに至っていたということです。
 なお、このより柔軟なマクロ経済政策は、後に高橋財政と呼ばれることとなったものであり、より柔軟なミクロ経済「政策」は、後に私が日本型政治経済体制と呼ぶことになったものであることは、言うまでもありません。
 当時の英国は、前者については「確固たる正確なモデルを手にいれ」たけれど、後者についてはついに全体像を把握することはできなかった、と言うべきでしょう。
 すなわち、ランカシア(ランカシャー)は、「英国人の認識が本質的に」不十分であったから日本に敗北したのです。(太田)

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<オマケ>

 ハメリンの妖しの世界の旅が始まったところですが、ここで、お急ぎでない方は、綿工業の話題にちなんで、彼の演奏による、

Frederic Anthony Rzewski(1938年〜。米国の作曲家)
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederic_Rzewski
のウィンスボロ綿工場ブルース(Winnsboro Cotton Mill Blues)
http://www.youtube.com/watch?v=x_KeybhGDDU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=MBhPKYHf3Qs&feature=related

をどうぞ。
 綿織物工場の中の織機の音がひとしきり続いた後、米国の片田舎の風景が展開します。

(完)