太田述正コラム#4744(2011.5.13)
<戦間期の日英経済関係史(続)(その2)>(2011.8.3公開)

 「<ところが、>「日清戦後経営」と総称される日清戦争後の経済政策、つまり陸海軍備の拡張・充実、製鉄業など重工業の発展、運輸・通信ネットワークの整備と拡充のための一連の経済政策の遂行に必要な資金を国内で調達することは・・・むずかしく、外資導入の必要があった。しかし、外債の引受国は欧米の金本位制国であり、外資導入のためには日本が<銀本位制から>金本位制に移行し、円の国際的な価値を安定させる必要があった。日清戦争による清国からの賠償金総額2億3150万両の獲得によって、金準備の不足という問題が基本的に解決したこともあって、日本は1897年に金本位制に移行し、それまでの外資導入に対する排他的な政策は大きく転換することになった。・・・
 1894年7月に・・・<日本の>関税自主権の獲得<を内容とする>・・・日英通商航海条約が締結された。・・・条約の実施は、1899年以降とされた。・・・1899年に居留地制度が廃止されて、「内地雑居」となったが、<懸念に反し、>英国商人をはじめとする欧米商人や中国商人の地位や活動にはほとんど変化がみられなかった。・・・
 <しかし、>貿易収支は、「日清戦後経営」のために1896年以降巨額の入超に転化し、・・・日露戦争の戦費調達、「日露戦後経営」のための外債発行、技術提携による技術導入などにより、・・・国際収支は危機的な状況になった。
 第一次大戦の勃発は、国際収支の危機に直面していた日本にとってまさに「天佑」であった。ヨーロッパの交戦国への物資や東南アジアの欧米植民地への代替品の供給によって日本からの輸出は急増し、国内的にも重化学工業の輸入代替化が進展した。・・・日本は国際収支の危機を脱し、一躍債務国から債権国へ転換した。しかし、第一次大戦のブームがすぎると、・・・大戦前と同様の貿易構造にもどり、・・・貿易収支はふたたび輸入超過となった。さらに1923年の関東大震災以降は、復興資材の輸入増加によって入超構造が定着し、在外正貨は急速に減少した。」(33〜35)

→ここまでは、明治後期から大正にかけての日本経済史の簡にして要を得た紹介になっていると思います。(太田)

 「1930年1月に、日本は1917年以降停止していた金輸出解禁を行ったが、世界恐慌の影響をうけて金流出は継続し、国内経済も打撃をうけた。1931年9月には満州事変が勃発し、さらに英国の金本位制離脱がつづき、投機的な「ドル買」によって金流出が継続したために、1931年12月に政友会の犬養毅内閣は金輸出再禁止の措置をとった。高橋是清蔵相は、軍備拡張政策による積極的対外膨張政策とともに低為替容認政策をとったので、円の急速な低落により綿織物をはじめとする日本からの輸出が急増した。日本製品の輸入急増に直面した英領インドや蘭領東インドなどでは輸入割当制度の導入や輸入関税の引上げなどの保護的対抗措置がとられた。・・・日本は輸出市場および原料供給市場として中国および東南アジアへの傾斜をいっそう強めていった。」(36、37)

→この部分は、いささか乱暴かつ単純化しすぎた記述になっていると言わざるをえません。(次の2の冒頭部分を参照。)

 「日英両国の輸出綿織物の世界市場における年平均のシェア<を見ると、>英国のシェアが第一次大戦以降確実に低下しているのに対して、日本のシェアは1920年代後半期に急増し、30年代半ばには英国を凌駕している。・・・
 1930年代初期までに日本の綿織物は、低価格と効率的な販売方法を武器に、英国が輸出市場を確立していた英連邦および英領植民地にまで進出した。とくに英国綿業の最大の輸出市場であったインドにおける日本製品の輸入の増大は、日英間の貿易摩擦の焦点となった。」(50)

→まさに、これが次の2の中心的テーマになるわけです。(太田)

2 ジョン・シャーキー「1920年代における英国の対日経済認識」

 翻訳のせいもあるのかもしれませんが、焦点の定まらない論考です。

 「1920年代の日本の経済成長率(年平均)は2.23%、30年代で5.02%であったのに対して、英国の成長率は1920年代ではわずかに0.55%、30年代では3.19%であった。・・・<このように、>英国経済の相対的衰退と日本経済の持続的成長<が見られた。>」(189)

→当時の米国経済に比べれば、結構英国経済・・本国だけをとっているということでしょうが・・うまく回っていたんだなという印象ですね。それにしても、日本の経済は、当時としては、大変な高度成長をしていたわけです。
 誰か、その要因分析を行い、高橋財政(マクロ経済政策)と日本型政治経済体制化(ミクロ経済政策・・ただし、「政策」とは言っても、ボトムアップのベクトルの重要性を忘れてはならない)・・それぞれの寄与度を算定して欲しいものです。(太田)

 「綿工業<についてみれば、>日本<においては、>最終工程の拡大だけではなく、紡績業を中心として、原料綿花の大量買い付けから綿糸や綿製品の輸出にいたるまでの大規模な垂直統合が行われた・・・。<そして、>労働条件の改善による生産性の向上など、技術や経営面で・・・紡績企業<が>革新<された。他方、>広範囲に存在する独立した小規模経営の織物部門の多くは、技術的には遅れた「アジア的生産」を維持していた。紡績会社は大日本紡績連合会を通じて綿工業を支配したにもかかわらず、供給における独占的地位を利用して独占的利益を確保したこともなく、また綿糸・綿製品の価格引下げ戦略の一環として自由競争を認めたという事実もほとんどみられない。・・・
 <戦後の日英の研究者達の中で>ランカシアに日本と競争できる可能性があったと主張する人々は、日本の綿工業に対する理解が不十分であったこと・・すなわち技術改良や組織<改革>についての調査が遅れた<こと>・・が、ランカシアの<相対的衰退、撤退をもたらした>要因の一つであったと推測している<が、>ランカシアが日本との競争から撤退したことが合理的であったと主張する人々は、ランカシアが日本<の綿工業について>よく理解していたと考えている<ように思われる。>」(190〜191)

→シャーキーの頭には日本型政治経済体制がなさそうなので、記述ぶりがよたっている感じですが、エージェンシー関係の重層構造からなる日本型政治経済体制化の進展に伴う協調下の激しい競争によってもたらされた経済高度成長、というのが当時の日本経済の実態であり、英国経済は、そんな日本に対して太刀打ちできず、日本経済の実態を的確に理解するとしないとにかかわらず、綿工業を中心に相対的衰退を余儀なくされたわけです。(太田)

(続く)