太田述正コラム#4740(2011.5.11)
<戦間期の日英経済関係史(その4)>(2011.8.1公開)

4 ジョン・シャーキー「英日関係における経済外交--1931〜1941年」

 「大蔵大臣とそのあと首相を務めたネヴィル・チェンバレンや、大蔵次官のサー・ウォレン・フィッシャー<(フィシャー)>に率いられたいわゆる「大蔵省グループ」は、政治的・経済的協力を英日関係改善の手段とみて、英国の限られた資源を解き放ち、不安定なヨーロッパに注ぎ込むためにはそれが必要と考えた。・・・他方、外務省グループはそれと反対の結論を導き出した。その中心人物は在日英国大使館経済参事官ジョージ・B・サンソムで、彼の論点は、経済問題は慎重に取り扱われる必要があるが、それ自体英日間の緊張を解決することにはならないというものであった。・・・国内経済のダイナミズムと超国家主義とが結びついて日本は政治的妥協には反応しなくなっており、英国の考える経済的な多国間主義に適合できなくなっている、と彼は考えていた。・・・
 「伝統的」外交史家が経済問題に言及する際には、それが日本に対する英国の態度・政策に影響を与えるほどのものではなかったと見がちである。しかしこの見方は、・・・英国の通商政策がいかに日本の対英不信感を増大させ、日本の東アジアでの侵略を正当化する結果になったかという問題なのである。」(92)
 「29年恐慌は製造業者と同様に原材料生産者に大きな衝撃を与えた。過剰供給のうえ、産業界の原材料需要が減少し生産者の所得が低下した。・・・<しかし、>帝国内の諸政府や原料生産者<、そして>英国政府も連邦諸国や植民地の<原材料>輸出収入を減らすつもりはなかった。したがって、オタワ特恵は日本のような第三国への原料輸出を制限しなかった。むしろ戦略的・政治的理由の両方により、30年代半ばから日本の原料獲得は数々の植民地当局の行政的措置で妨げられた。日本の原料に対する投資の多くには明らかに軍事的・政治的意味合いがあったため、そのような制限措置にはそれなりの理由があったし、原料の制限で日本経済の競争性の低下をねらう意図がなかったことも同様に明白である。」(106)
 「日本政府<は>貿易摩擦をやわらげることを前提にした政治的な取り引きに興味を示さなかった・・・。」(103)
 「実際、英国側の控え目な経済的差別、日本側の常識的な対応、経済外交の失敗を考えると、経済問題が、時として二国間関係を軋しませたとしても、太平洋戦争にいたる10年間の両国の対立を決定づけたとはいえないことは、明白である。つまるところ、この対決は、武装し野望に満ちた日本に対して英国が弱い態度をとったため、政治的・経済的不安定が生じたことの結果であった。最終的には、危機の政治的・軍事的側面の解決のみが英日関係を安定させることができたはずである。・・・経済外交を通じて英日間の政治的影響を軽減させようとすることは幻想にすぎなかったのである。」(116〜117)

→要するに、英国のこの頃の親日派の過ちは、第一に、経済(ローポリティックス)で政治・軍事(ハイポリティックス)を左右することなどできないという当たり前のことを忘れていたことであり、第二に、あろうことか、経済の中でも相対的にとるにたらない綿業問題を重視したことであり、また、親日派、反日派共通の過ちは、第一に、政治・軍事面で日本を脅威と見、米国を脅威と見ていなかったことであり、第二にこのこととも関連し、米国に対しては相対的没落に甘んじつつも日本に対しては相対的没落についに甘んじようとせず、支那等で日本の足を引っ張り続けたことであり、第三に、最も根本的なことですが、欧州大陸における脅威にとらわれすぎて、ロシアの脅威、この時期においてはより正確には赤露の脅威、を等閑視したため、日本の対赤露安全保障政策を正当に評価することができなかったことです。
 このような見地からは、シャーキーの記述ぶりには、まことに隔靴掻痒の感があります。(太田)

5 池田清「シンガポールへの道--大戦下の日英関係(1941〜1945年)」

 この論文は、戦後日本における通説をなぞっただけの出来の悪いものですが、その出来の悪さが特によく分かる2〜3か所をとりあげておきましょう。

 「南京<(汪兆銘)>政府は43年1月9日、英米に対し宣戦布告した。日本政府は、・・・治外法権や租界の撤廃、華北、内蒙に対する特殊地域化方針の放棄、1940年締結の日華基本条約の全面改訂などを通して、日華関係の再構築を図った。この対支政策の推進者は駐支大使・重光葵であり、彼は、満州事変以来の日本の露骨な権益確保を反省して、南京政府と「互恵」の基盤に立つ対等な同盟関係を設定し、南京政府の政治力を強化しようと考えたのである。」(135)

→この箇所の池田の典拠は1952年に出版された重光の著書『昭和の動乱』(144、146)ですが、当然外務省善玉史観で書かれたはずですし、そもそも、一介の大使に、しかも、帝国陸軍が特に発言力の強かった対支政策に関して、裁量の余地があったはずがありません。東條首相が内閣を代表してかかる政策を決め、実行した、と言うべきでしょう。
 なお、対英米開戦をあえて行わしめられなかった満州国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
と違って、汪兆銘政権の対英米宣戦が遅れつつも行われたことは、同政権の傀儡度の相対的小ささの表れ、と解すべきでしょうね。(太田)

 「1943年4月の内閣改造で、重光は外相兼大東亜相として入閣し、大東亜会議の開催と大東亜宣言の起草との事実上の責任者になった。・・・
 重光外相は<大東亜会議>の「共同宣言」に、二つの目的を秘めていた。その第一は、「対支新政策」の理念を東亜全域に拡張し、これを対内的に反映させて軍部の独走に歯止めをかける意図である。第二は、大東亜建設という排他的なスローガンを排除して、自主独立・平等。互恵・解放などの普遍的な理念を導入し、戦争目的を再定義することにあった。・・・重光外相は、「宣言」の新戦争目的を「大西洋憲章」の普遍的な諸理念に近似させることによって、将来の平和回復に備えたのである。この点において、重光外相と東条首相や軍部との間には、「会議」と「宣言」の理解について、かなり大きな相違があった。連合国の動向と早期和平を強く意識していた重光に対して、東条や軍部は、劣勢な選挙区に対応する「大東亜」の政治・軍事的結束をより重視していたといえよう。」(135〜136)

→この箇所についての、池田の典拠は、重光の前出の著書と波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(1996年)(144、146)ですが、前者については同じことが言えますし、後者についても、波多野は、「外務省外交史料館非常勤職員(1973-1979年)、防衛庁防衛研修所戦史部助手(1979-84年)・同所員(1984-1988年)、筑波大学社会科学系助教授(1988-1998年)を経て1998年より筑波大学教授。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%BE%84%E9%9B%84
と、慶大法を卒業した1973年から、学者としての基礎が形成される10年間を政府部内で送っており、やはり外務省善玉史観に染まっていると考えるのが自然でしょう。
 池田の結論的部分は、「重光」と「東條・軍部」の「考え」は相補うものであることはさておき、ここでもやはり、大東亜会議は、東條首相が内閣を代表して方針を決め、実施したものであると言うべきでしょう。
 池田の問題点がより鮮明に出ているのが、インパール作戦についての記述(138)であり、この作戦があたかも牟田口廉也第15軍司令官(中将)のは発意と責任の下に行われたかのような記述になっていますが、この作戦は、東條首相の強いイニシアティブの下に、帝国陸軍全体の反対を押し切って行われた、というのが私の解釈である(コラム#1249、1250、1251)ことを、ここで改めて強調しておきましょう。(太田)

(完)