太田述正コラム#4679(2011.4.11)
<トマス・バティとヒュー・バイアス(その4)>(2011.7.2公開)

 バイアスは、国際連盟についても、バティとは違って、無条件で礼賛していました。
 だから、米国が国際連盟に加盟しないことになった時には大いに落胆したものです。
 そのバイアスも、1928年の済南事件に際しては、バティならぬ、(世紀の変わり目にケンブリッジ大学の国際法講師をしていた)T.J.ローレンス(Lawrence)の説を援用して、田中義一内閣によるこの軍事介入を正当化する、以下のような記事をジャパン・アドバタイザーに書きました。
 「内戦が行われている地域において文明社会における通常の諸権利」を維持することができる支那当局が存在しない以上、<このような場合に行われる>「軍事介入なるものは不吉な前兆たる言葉ではないのであって、火が燃えさかっている時、権利侵害に係る法のことを殆ど考慮することなく自分達の財産を救う努力を行う、ということなのだ。どんな国家も基本原則であるところの隣国の独立を尊重する義務があるが、自分自身の安全への配慮はそれよりも更に基本的なことであって、この二つの原則が抵触する場合においては、自然かつ適切に自己保全の原則に立脚して行動するのだ」と。
 また、国民党勢力が満州に向かって来つつあるという状況下において、バイアスは、やはりジャパン・アドバタイザーにおいて、いかに満州が日本の条約上の諸権利体制の下で成長し成熟したかを描写しました。
 とりわけ、彼は、日本の南満州鉄道が満州の農業生産性と鉱業に与えた巨大な影響に着目しました。
 更に、他人の書いた洋書を要約紹介する形で、同紙に、日本の影響下における繁栄と相対的な秩序の安定により、以前には極めて人口の少なかったこの地域に支那人の移民が大量に流入し続けていることを記しました。
 やがて1930年にもなると、バイアスは、バティの国際関係観に染まり、同紙に、国民党政府は部族の集合体であり、満州にいる支那人は満州人なのであって、仮に投票権が与えられるとすれば、支那よりは日本の下にあることの方を選ぶことは間違いない、と記しました。
 バティの国際関係観が、バイアスを通じてニューヨークタイムスに初登場するのは1929年12月のことです。
 その記事の中で、バイアスは、日本の満州における断乎とした姿勢の背後にある理由・・ロシアによる満州併合を防止するためのロシアとの戦争において日本が払った犠牲、そして、ロシアの脅威の再来の可能性、及び日本の臣民・財産を危殆に瀕せしめる支那の無秩序から満州を守る必要性・・を列挙しました。
 そして、彼は、「支那が一度として満州を外国からの侵略ないし内部的無秩序から守ることができたためしがなかったことから、日本の満州におけるプレゼンスは必要に迫られてのものである」と論じたのです。
 赤露の脅威に触れた点を含め、バイアスの筆致は冴えています。

 そんなところに、カナダが大英帝国内において独自の外務省を持つ運びとなり、駐米公使館、駐仏公使館に続いて
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Meredith_Marler
1929年に駐日カナダ公使館が設けられると、バイアスとバティは新任のカナダ公使のハーバート・マーラー(注4)と親しくなり、マーラーは二人の国際関係観を吸収します。
 その上で、朝鮮半島と満州の視察も踏まえ、彼は、本国宛てに、日本がその海外領において奇跡を起こしていること、支那は、主権国家とみなされための最も初歩的な規準をも満たしておらず、ライバル関係にある諸軍閥、北方の張作霖政府、及び南方の国民党政府に分裂していること、従って、諸国家からなる国際社会のメンバーたりえないこと、を伝えます。

 (注4)Sir Herbert Meredith Marler。1876〜1940年。その後、駐米公使。
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Meredith_Marler 上掲

 そして、満州事変が起こってから約1年間、カナダ政府は、日本の見解に同調することになるのです。
 これを歴史家達は、カナダ外交政策における逸脱(aberration)と呼んでいます。

 さて、1931年9月18日にに満州事変が勃発すると、バイアスは、特派員としての彼自身が送った記事やロンドンタイムスの編集者宛の彼の手紙を通じて、ロンドンタイムスの論調に大きな影響を与えます。
 事変が起こった直後の同紙の論説では、バイアスのそれまでいくつかの記事が引用され、中村大尉事件(コラム#4612)等への言及がなされつつ、事変勃発について日本ではなく支那の側への批判が投げかけられました。
 やはりバイアスが特派員となっていたニューヨークタイムスにも同趣旨の論説が載りました。

 そうこうしているうちに、10月8日には錦州(Chinchow)爆撃(注5)が日本の関東軍によって敢行されます。

 (注5)「1931年・・・10月8日、関東軍の爆撃機12機が、石原・・・莞爾関東軍作戦主任参謀・・・の作戦指導のもと遼寧省錦州を空襲した(錦州爆撃)。錦州には、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89#.E9.8C.A6.E5.B7.9E.E7.88.86.E6.92.83
 「計11機が投下した爆弾は25キロ爆弾75発、石原参謀自身旅客機で編隊に同行した。爆弾懸吊装置を装備していない偵察機6機<も>使用し・・・、爆弾を真田紐で吊るし、目標上空で紐を切って投下したという。・・・錦州駅近くや病院、大学にも爆弾が落下し、民間人に死傷者が出た。
 この爆撃は第一次大戦後初の都市爆撃であったこと、錦州市が満鉄沿線から遠くは慣れていたことなどから、日本に対する国際世論を一気に悪化させた。他方、石原莞爾の狙いは軍事的な戦果よりも、既成事実を積み重ねて政府や軍中央を引くに引けないところに追い込むことにあった」
http://blog.goo.ne.jp/1937-2007/e/d41926d96b7b3aa71f2763b7543da92d
 「南次郎陸軍大臣は、若槻禮次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告した。しかし、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表し、自衛行為という見方を自ら否定した。」(ウィキペディア前掲)

(続く)