太田述正コラム#4671(2011.4.7)
<再び日本の戦間期について(その2)>(2011.6.28公開)

 「<1920年代半ばにおいても、>日英・・・両国の双方で同盟の良い時代を懐かしむ人びとが残っていたし、中国での排英ボイコット運動が激化すれば、かつての同盟国と共同で対抗手段を講じようという考え方がイギリス側に生れたとしても不思議はなかった。一方、日本側でも・・・中国での「ボリシェビズムの脅威」の高まりに直面して、対英提携の有用性を再認識する議論が見られる。たとえば、畑英太郎<(注3)>軍務局長はピゴット(Francis Piggott)<(コラム#3983、4255、4270、4272、4281、4304、4388、4390、4392、4502、4532)>駐日英大使館陸軍武官に対して、中国の国民革命軍がボロディン(Mikhail Borodin)<(コラム#1859、4498、4502)>らソビエト顧問の強い影響をうけつつある事態を見て、「日英協力の望ましいことは歴然としている。とくにソビエトの企図が中国で成功した場合には、日本にとって死活の問題である」との考え方を陸軍首脳部はもっていると、漏らしていた(25.12.2)。この点と関連して、宇垣<(一成(注4)。コラム#2042、3774、4274、4377、4392、4624、4669)>陸相がその日記に、
 「英の如きは日英同盟廃棄の結果を痛感してヨリ戻しを必要とする意向が進展して来りそうである。…我より水を向けて極東に平和の新天地を開拓するの意義に於て…旧来の親善関係を両国間に恢復するの必要を痛感する。米国を此のお伴に連れ込むことも結構である。此の協同が出来るならば支那の問題は世界の大事とならずして解決し得」(26.12.5)
との観察をしるしている・・・。」(9)

 (注3)1872〜1930年。参謀本部付(英国差遣)、駐英大使館付武官補佐官、インド駐剳武官等英国関係の職位を歴任後、軍務局長、その後、陸軍次官、第1師団長を経て、1929年7月、関東軍司令官となり、張作霖爆殺事件後において手腕発揮が期待されたが、翌年5月1日、陸軍大将に進級後、現役のまま旅順で死去した。弟は畑俊六陸軍元帥。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
 (注4)1868〜1956年。2度ドイツに留学。第10師団長、陸軍次官を経て陸軍大臣(1924〜27年)となり1925年に宇垣軍縮を断行。その後、再度陸軍大臣(1929〜31年)、そして朝鮮総督。1937年大命降下を受けるも組閣を断念。「<1913年、>第1次山本内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強硬に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省の課長だった宇垣であり、皮肉にも広田内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれたことになる(仮に、予備役でも陸相になることが可能であれば、・・・予備役陸軍大将だった・・・宇垣自身が陸相を兼任すれば宇垣内閣が発足できた)」。1938年外相。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90

→これまで累次申し上げてきたことですが、このように、帝国陸軍の歴々は、英国通であれドイツ通であれ、おしなべて、かつ一貫して親英的であり続けたのであり、その姿勢は1930年代末まで変わらなかったのです。(太田)

 「<他方、>幣原外交の実践の軌跡を考察するとき、それは・・・英米との二国間レベルでの協調については、対米傾斜が強く、イギリスに対しては警戒視すら窺えるということができる。幣原外交のイギリス軽視の性格についてはティレー(Tilley)駐日英大使もこれを看取している。」(10)

→ところが、米国事大主義の幣原外交によって、日本は英国を離間してしまうのです。(太田)

 「1927年4月20日、田中義一内閣が登場<するが>、・・・「田中外交」は・・・<この>「幣原外交」とは多分に様相を異にした。・・・
 <田中内閣による>5月28日<の>・・・山東への出兵声明の2日前の5月26日、イギリス内閣の「中国問題委員会」の席上、ミルン(G.F.Milne)参謀総長は、「日本の山東出兵決定により事態は大幅に改善された」と満足感を表明するが、このことは、山東出兵の措置が事前にイギリス側に通告され、了解をとりつけたものであることをしめすように見える。山東出兵を好感で迎えたチェンバレン<(注5)>外相は、松井慶四郎駐英大使に「両国の考えは今や同一軌道にそって展開している」とのべ、さらにこのような日英接近からやがて「同盟の復活とまではゆかないにしろ何らかの正式の合意」が生れる可能性があると期待を披瀝していた(27.6.2)。
 「田中外交」は、基本的には陸軍主流の見解にそって動いていたといって良い。「対満蒙政策に関する意見」(27.6.1、関東軍司令部)は、「支那本部におけるソヴィエト・ロシアの支那革命運動に対しては英国と協調してこれが排除に努め、要すれば支那穏健分子を支持す」としるすが、陸軍は「ボリシェビズムの脅威」に対抗する点でも、また中国の民族運動の穏健化をはかる上でも、日英間には共通の利益が存在すると見ていた。」(10〜11)

 (注5)オースティン・チャンバレン(Sir Joseph Austen Chamberlain。1863〜1937年)。蔵相等を経て、外相:1924〜29年。(コラム#4502)
http://en.wikipedia.org/wiki/Austen_Chamberlain

→何とか、幣原外交の結果生じた英国の対日不信を拭おうというのが、帝国陸軍と連係した田中外交であったわけですが、覆水盆に戻らず、というところがあったわけです。(太田)

 「1931年9月、満州での日本の軍事行動の開始と満州国建設への動き・・・<、すなわち、>日本が・・・満州につくりだした「新秩序」への承認拒否を明確に打ちだした「スティムスン・ノート」(32.1.7)を・・・アメリカは・・・日本政府に通告した。この際スティムスン(Henry Stimson)米国務長官は英国との協調行動を期待したが、それはサイモン(Kohn Simon)英外相の容れるところとならず、イギリスは別箇に行動し、内容も遙かに穏かで単に満州での「門戸開放」の確認を日本に求めることを主眼とするステートメントを出す以上の措置をとることはしなかった。その上、イギリスは同年1月、中国の治外法権問題について日本との協調をはかりたい旨の交渉の申入れをしている。
 かくて満州事変に対する英米の態度には不一致が窺え、イギリス側には日本の行動への同情論や中国ナショナリズムの高揚やソビエトの脅威に直面する状況のもとで、共通利益を保全するためやむをえない措置として、これを是認する見方すら存在していた。アメリカ政府内部で論議されていた対日経済制裁や大使召還といった強硬措置はもとよりイギリス政府から見るとき問題外であった。
 <その後、>上海事件<(注6)>の勃発(32.1.28)で、英国政府の対日態度には微妙な変化が生<じ、>・・・アメリカの立場に多分に接近したといえる。この差異はいうまでもなくイギリスが満州と揚子江流域方面でもつ既得権益面での大きな違い、また中国への伝統的な関心の地域的なかかわり方の相違にもとづく。といっても、揚子江方面での利権を擁護するために<日本に対する>経済制裁やアメリカとの協同武力示威・・・といった<ことを行う>用意はイギリス政府には欠けており、さらに、<イギリス>政府部内では、チェンバレン(Neville Chamberlain)<(注7)>蔵相、トマス(J.R.Thomas)植民相、ホーア(Samuel Hoare)印度相らが代表する、「日英同盟の喪失を嘆き、日本との緊密な関係の再建を力説する」声も聞かれたのである。
 このようなイギリスの、アメリカとは一線を画した対応ぶりは、日本政府に好感視されたことはいうまでもなく、・・・内田康哉外相のもとで立案された・・「国際関係より見たる時局処理方針案」32.8.27、閣議決定・・・によると、イギリスはその重点を「支那本部就中上海、広東其他長江沿岸及南支方面」においているところから、「該地方に於ける英国の立場を適当に尊重しつつ協調の歩武を進むるは満州問題に対する我方の地歩に良好なる影響を招来する所以と思考せらる」と判断され、・・・日英協調の必要性とまたその可能性のあることが説かれていた。」(13〜15)

 (注6)1932年の上海事件(コラム#214、215、3803)。1925年の上海事件(コラム#4508、4510)と混同しないように注意。
 (注7)ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain 。1869〜1940年)。蔵相:1923〜24年、31〜37年。首相:1937〜40年。オースティン・チャンバレン(上出)の異母弟。(コラム#833、2305、3505、4272、4671)
http://en.wikipedia.org/wiki/Neville_Chamberlain

→それでも、満州事変への英国の当初の反応は、米国に比べても穏健なものでした。
 なお、スチムソン(コラム#4464)、つまりはフーバー米政権の反応も、その後のローズベルト政権のことを考えれば、比較的穏健なものであったと言えます。(太田)

 「しかし、1933年に入ると情勢は大きく転換する。第一は、国際連盟からの日本の脱退である(33.3.27)。・・・
 リットン報告書(Lytton Report)を基礎とする・・・連盟の19カ国委員会の報告及び勧告書の可決(33.2.24)を見て、日本全権団の松岡洋右以下の代表は議場から退場する<(コラム#4616)>が、リットン報告書の不評は対英不評に、また連盟からの脱退は、イギリスからの疎隔に、さらにはグローバルな戦後国際秩序への挑戦の第一歩へと発展してゆく。3月27日、サイモン外相は下院で、日中両国への武器禁輸の方針を声明したが、日本側がこれを日本に照準をおいた一種の制裁措置とうけとり、反撥する。
 日英関係の悪化に働いた、さらに別の要因は、経済面での日英間の繊維貿易紛争の激化である。両国間の貿易紛争は、1928年ごろから悪化の兆を見せていたが、1932年7月オタワで開かれた英帝国経済会議がスターリング・ブロック結成の方針を採用したことで、日本の綿・レーヨン製品を英連邦諸国から締めだす動きは一段と厳しさを増し、この33年は経済紛争が「政治化」の様相を深めていた。イギリスによる日印通商条約の廃棄通告(33.4.10)は、日本人の対英反感を募らせるにさらに与って力があった。」(15〜16)

→1933年における日英関係の悪化の原因は、東アジアの実態にそぐわないリットン報告書を基礎とするところの勧告を行った連盟からの日本の脱退などではなく、米国発の世界大恐慌に起因するところの、欧米列強の経済のブロック化・・日本から見れば日本の他列強圏からの閉め出し・・であったと見るべきでしょう。(太田)

(続く)