太田述正コラム#4833(2011.6.27)
<皆さんとディスカッション(続x1246)>

<太田>(ツイッターより)

 (コラム#4831に関し)「エッチな物語」→「ありきたりのラブ・ロマンス」。
 よく英文を読んだらかなりニュアンスが違ってた。
 まことに女性心理は微妙でやんす。

 本日取材があるので、FCLP問題をちょっと調べている。
 FCLPってなんだって?
 NLPは夜間にだけ注目した言葉だけど、FCLPは昼間実施される空母艦載機のタッチアンドゴー訓練を含めた用語だよ。
 この問題も10年(50年?)一日のごとしって感じだね。諸君、一日も早く「独立」を!
<ψεεψ>(「たった一人の反乱」より)

古賀茂明氏は現在、大人気ですね。「日本中枢の崩壊」は16万部も売れているようですし、マスコミにも多数出演されてます。
古賀氏は、数年前に大腸がんの手術(リンパにも転移あり)を経験されて命の期限を感じ、今回の現役ながら内部告発に踏み切ったのではないでしょうか。
 大田さんと同じく、天下り批判もされているので天下りもしないでしょう。
 中で気になったのが、「幹部の良識派(古賀氏は絶滅危惧種と呼んでいる)がほとんどいなくなった」とゆう箇所でした。
 太田さんの発言で「彼の、天下り批判、おおむね同感だな。」とありましたが、同感できない部分とは何でしょうか?

<太田>

 天下りを中核とする政官業の三位一体的癒着構造がどうして形成されたか、そもそもどうして自民党政権が恒久化したのか、といった歴史的分析がなさそうなところ、換言すれば、戦後日本歴史構造論が欠落していそうなところだな。
 ということは、恐らく、彼は、安全保障感覚も希薄なのではないかと思われる。
 ま、経済官庁に行く連中はえてしてそうなんだけどね。
 原発問題だって、経済的・軍事的安全保障的視点・・それには日米関係的視点も含まれる・・がないと、片手落ちもいいところだ。
 問題は、どうして、戦後日本では、安保に関わりのある施策が、ことごとくねじ曲がり、癒着と腐敗の温床になってきたのか、なんだな。
 以上は、http://news.livedoor.com/article/detail/5608038/ を読んだ限りでの僕の印象であり、彼の本を読んでいないので、或いは早とちりなのかもしれないけどね。
 それはそれとし、天下り廃止を叫ぶ官僚が僕に続いて現れたのは大いに心強いな。
 もっとも、10年間に2人じゃ、少なすぎるけどね。

<べじたん>

≫一般の公務員と違ってなんで卒業しない者を外務省は採用することにしたのかも教えてほしいな。司法試験なんかは資格試験だけど、公務員試験は採用試験だというのにね。≪(コラム#4767。太田)

 戦前は資格試験だったんですね。

 「旧制で、高等文官の資格を得るための国家試験。高等試験。高文。」
http://kotobank.jp/word/高等文官試験
 「文官高等試験合格者一覧」(明治27年〜昭和16年の外交科・中退者計53人、明治27年〜明治41年の行政科・中退者計14人)
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi25.html

 昭和27年東大中退外務省入省の岡崎さんより一年先輩の大木浩の経歴ですが、なぜ中退しなかったのか不思議です。

 「・・・昭和27年3月東京大学法学部を卒業。
 在学中に外交官試験に合格、昭和26年外務省入省、・・・」
http://www.kantei.go.jp/jp/daijinmeibo/9709kakuryo/20ookihirosi.html


≫戦前は、高等文官試験(国家公務員試験の前身)合格者が外交官になっていた、つまりは現在と基本的に同じだった、という理解でいいんですかね。≪

 日立デジタル平凡社の孫引きですが、大まかな歴史。

 「高文
 1893年の文官任用令と対になる1887年の文官試験規則において定められた〈文官高等試験〉の略称。これにより奏任官の任用資格は文官高等試験の合格者となり,それまでの帝国大学法科大学卒業生の無試験任用の特典は廃止された。
 この試験は毎年1回満20歳以上の男子を有資格者として東京で行われ,本試験は憲法など6種の法律必修科目と選択科目による筆記試験および口述試験であった。出題は,行政官と大学教授とから成る文官高等試験委員が担当した。
 合格者は各人の志望と大学および高文の成績に基づき,各官庁別に採用された。
 1918年高等試験令により,それまで別体系だった外交官・司法官の採用試験も一本化され,論文・外国語の予備試験と行政科・司法科・外交科の各科ごとの本試験を行うことになった。
 43年戦争激化により高文は停止され,46年に復活したものの47年限りで再度停止され,国家公務員試験に引きつがれた。
 高文の制度化により情実任用が排され学校体系と人材登用試験が結合した結果,貧家の秀才にも立身出世の機会が保障される社会移動の回路が形成された。そして明治末年には学閥官僚の優位が確立し,大正期には学歴社会が成立する。そのため一高―東大法学部―高文を頂点とする進学競争が激化する。その反面,画一的な尋常小学校の上に多様な学校が並列され,卒業者に相応の社会的地位が付与される高文以外の出世コースの並存が,戦後と異なる点であった。
  御厨 貴
  (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.」
http://mimizun.com/log/2ch/history/1082145556/

 高等試験委員は出題だけでなく、合否判定もしていました。

 「高等試験令(昭和4年勅令第15号)
第19条 高等試験ノ合格者ヲ定ムル方法ハ高等試験委員ノ議定スル所ニ依ル」
http://www.houko.com/00/02/S04/015.HTM

 そして、「合格者は各人の志望と大学および高文の成績に基づき,各官庁別に採用」されたということなので、現在のシステムと同じですね。

#  「高等試験委員及普通試験委員官制(大正七年勅令第九号)」が公開されていないので、
# 「高等試験委員及び普通試験委員臨時措置法(昭和23年法律第53号)」を参考にすると、
# 戦後は「高等試験委員会は、法務総裁の所轄とする。」と書かれているので、
# 戦前は司法大臣の所轄かな、と思われます。
# http://www.geocities.co.jp/nakanolib/hou/hs23-53.htm
#
#  大学教授だけでなく行政官も含まれる高等試験委員が、
# どの程度の独立した組織だったのかは、よく分かりませんでした。
#  人事行政の一つだったようですが。
#
#  「戦前の公務員制度 人事行政は法制局、試験委員、大蔵省などで分担
#   戦後の公務員改革 中央人事機関として人事院を設置」
# http://pubadmin05.up.seesaa.net/image/pubadmin09ppt.pdf
# http://pubadmin05.seesaa.net/article/11462388.html


 以上をまとめると、戦後の外務省は、戦前持っていなかった高等試験委員の裁量も手に入れた、ということになりそうですね。
 この話↓は、できたての人事院の弱さが伺えますし、おそらく、外務省としては、人事院が強くならないうちに人事院から抜けておこう、って魂胆もあったのでは?

 「・・・まだ人事院が外交官試験の試験機関であった1951年(昭和26年),当時の外務省政務局長の島津久大は「現在人事院の試験といたしまして,実際は外務省の職員が相当入りまして,外交官ないし留学生程度の試験を行っておりますが」との国会答弁を行っている(21)。この島津の答弁からは,人事院が外交官試験の試験機関であった戦後直後においても,実際には外務省主導で外交官試験が行われていたことが窺える。・・・」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/10-1/takemoto.pdf

 補足します。

 日立デジタル平凡社の孫引きには書かれていませんが、1918年(大正7年)から1941年(昭和16年)まで行政科と外交科は試験が別でしたが、1942年に外交科を行政科に統合しました。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi25.html
外務省的には面白くなかったでしょう。このことも、人事院から抜けたかった理由だったかもしれません。

 「(外交科の廃止)
 また、昭和16(1941)年に外交科が廃止されて行政科に統合されたが、当時の「ねらい」は、むしろ、戦時体制における軍部対外務省といった図式の中で、外務省の弱体化をねらったものとも見られている(「国際間の問題を外交による平和的手段よりもむしろ武力に頼って解決しようとする時代」、「専門の外交技術がさほど重視されなくなる」(近衛首相)といった言葉にもにじみ出ている)(14)。「意図」は別として、国際化の中で、採用段階では他の省庁職員と別建てにせずに共通の試験によって人材を確保して育成していく方法を選択した点では、平成13(2001)年から外務公務員採用擬鏤邯海鮃餡噺務員採用擬鏤邯海謀合したことと、外形上は似ているところがある。」
http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/172/ukai.pdf

 この流れのまま、高等試験が復活した46年と47年、さらに、48年から51年までの戦後の国家公務員試験でも、外交科は行政科に統合されてたんじゃないかと思われます(裏が取れません)。

 ちなみに、外交科廃止案は、34代第1次近衛内閣が引き継いだ人事行政一元化構想の過程でできたおまけのようなものでした。
 32代広田内閣から始まった、この構想は、官僚と枢密院が反対したことや、内閣がコロコロ変わったこともあり、38代第2次近衛内閣で「「研究事項」として閣議決定」されたそうです(研究事項=実質棚上げってことでいいのかな?)。

 「2. 議論の萌芽期 −広田弘毅内閣時に現れた「内閣人事局」構想−

 昭和11(1936)年、「二・二六」事件で倒れた岡田啓介内閣を継いだ広田弘毅首相は、「非常時局の打開、庶政一新政策の実現」を掲げる中、官吏制度に関しては、単なる運用の問題を超えた機構改革の必要性が謳われた(5)。
 これが、新しい行政機関(統一人事(行政)機関)の設置が必要であるという方向に向かう。「内閣人事局」というアイデアもこの時代に現れたものである。この「内閣人事局」は、総理大臣直属の機関として、人事行政の公正・統一を図るものとされている。・・・しかし、この案の法制化は、枢密院、各省の反対によって、実現せず、次の林銑十郎内閣でも「官吏制度の改正」が目指されたが、そこでも実現には至らなかった(8)。

3. 紆余曲折の要綱策定とその後の迷走 −「内閣人事部」構想、そしていくつかの大綱−

(まずは、近衛第1次内閣での大綱策定)
・・・「内閣人事部」の新設といった内容が盛り込まれた。
 この案に対しては、強い批判・反対意見が表明された。各省事務次官はこぞって反対し、特に、「人事部」設置については、各省の統一的人事遂行を不可能にするものとして設置すべきでないとした。政務官会議はおおむね賛同しつつ官吏分限令の全廃を主張し、他方、陸軍は、「人事部」設置以外についてはその不徹底さを非難した。
 これを踏まえ、法制局は、試験制度を中心とした案をまとめた(外交官・領事官任用のための高等試験外交科を行政科と統合するという新しい案が含まれた。それに基づき閣議で議論が行われ、やや旧案に回帰したものとなった(「骨抜き案」といわれた)。・・・しかし、近衛首相の退陣とともに未実現に終わってしまった。・・・」
http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/172/ukai.pdf

<太田>

 毎度ありがとうございました。


 それでは、記事の紹介です。

 韓国で地域的結束や学校の同窓生の結束が弱まり、より個人主義的になってきたとさ。↓

 The strength of personal networks based on regional and school ties, which traditionally lie at the core of the Korean way of building relationships, is dwindling, according to recent surveys that suggest individualism is on the rise in Korean society. ・・・
http://english.chosun.com/site/data/html_dir/2011/06/27/2011062700257.html

 中共の財務大臣が2007年に辞職したのは、台湾の女性スパイのハニートラップにひっかかっていたからだってんだね。↓

 When Chinese authorities announced that former Chinese minister of finance Jin Renqing (金人慶) was stepping down in August 2007, they claimed he was doing so for “personal reasons.” According to a series of classified US diplomatic cables recently released by Wiki-Leaks, the real reason behind Jin’s resignation was his romantic involvement with a woman who was linked to several other prominent Chinese officials. That woman, it is alleged, was a Taiwanese intelligence operative.・・・
http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2011/06/27/2003506788