太田述正コラム#4655(2011.3.30)
<ロシア革命と日本(その12)>(2011.6.20公開)

 「<他方、戦後の米国においては、従来の考え方(=米国の従来の通説的史観≒ソ連のかつての公定史観)を基本的に踏襲する者、ソ連の新しい公定史観に基本的に同調する者がいたが、そのほか、>第三の立場<として、対ソ>「封じこめ政策」の立案者<たるジョージ・>ケナン<の史観が出現した。>・・・
 ケナンは、・・・一面、アメリカ政策の擁護の立場をとる。・・・しかし彼の本領は、アメリカの対ソ政策擁護にあるのではなく、むしろその独自のリアリズムの精神に導かれた批判にある。・・・彼の批判は、とくにウィルスン政権の対ソ政策の混乱と不統一の様相、またそのユートピア的性格をつく点におかれる。駐露米大使館内部、また大使館と他の政府機関との対立による情報網の効率低下と行動の不統一。東部戦線再開についてのワシントンの抱いたイリュージョン。ケナンは、ロシアに駐在した政府下級機関のうちに、明確に革命反対の立場をとり、その見地からワシントンへの働きかけを行い、あるいは反革命派と連絡を行っていた者のあることを否定しない。彼はこの点でアメリカの政策が誤解を招く余地のあったことを認め、政府機関内部のコミュニケイションの欠如を指摘するのである。
 ケナンはこのようにして、ウィルスン政府の対ソ政策において、誤謬と錯覚と不統一のあることをいい、独自の形で批判を加える。それと同時に、対ソ政策の混乱と分裂の様相の指摘自体が、「アメリカ帝国主義者」がその本質目的にもとづいて周到な計画のもとに、17年中葉以来一貫して反革命政権を推進していたとする主張<(=ソ連の新しい公定史観)>に対する基本的な意味での反駁になっていることも、注目されるところである。
 このように、ケナンは、政策決定過程の複雑な構造を分析する点に特別の関心を向けるが、この点はアメリカ学界の最近<(=1972年当時)>の一般動向の反映であり、このこと自体、歴史過程の単純化的解釈に対する不満を示したものと見られるであろう。」(260〜261)

→私はケナン(George F. Kennan。1904〜2005年)の事跡に得心のいかない思いがしています。
 彼が、自分の対ソ「封じ込め政策」にどうやって到達したのかを、自ら明らかにしていないからです。
 ご存じのように、かねてより、私は、ケナンは、戦間期の日本の対ソ政策・・より正確には帝国陸軍の統制派の対ソ政策・・を、言葉は悪いけれど、パクったのではないか、著作権違反じゃないか(?!)、という疑いの念を抱いてきました。
 というのも、彼の外交官としてのキャリアの前半は、米国務省入省後、1929年にロシア専門家になる基礎教育をベルリン大学で受け、爾来、1931年には駐ラトヴィア大使館勤務となって、米国と国交樹立前のソ連の情報収集を行い、1933年に国交が樹立されると11月に駐ソ連大使館勤務となってソ連の大粛清を目の当たりにし、次いで本省でロシア担当となり、1938年のドイツ進駐前の駐チェコスロヴァキア(ソ連の隣国)大使館勤務、1939年の第二次世界大戦勃発後の駐ドイツ大使館(ソ連の隣国)勤務、そして、駐ポルトガル大使館勤務、駐英国大使館勤務という彼にとって不本意な補職を経て、1944年に待望の駐ソ連大使館勤務(ナンバーツー)となる、というものですが、駐ドイツ大使館時代に、米国は到底同盟相手としてふさわしくないソ連に対して一切援助をすべきではない、との意見具申をしていることから、その時点で既にソ連封じ込め論に到達していたと思われるところ、彼が、それまでの間に、ソ連の主要諸隣国の対ソ政策、就中日本の対ソ政策、を研究していなかったとは、およそ考えられないからです。
 ケナンが、1946年2月22日に有名な5500字という長文の電報をモスクワから国務長官宛てに打ち、また、翌1947年、フォーリンアフェアーズ誌の7月号に、これまた有名なX論文を発表し、一躍対ソ封じ込め論者として米国の寵児となり、この彼の論が米国の国家戦略として採用されるに至ったことは、よく知られているところです。
 興味深いのは、ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマレー(John Van Antwerp MacMurray)が駐ラトヴィア公使(兼駐エストニア公使、駐リトワニア公使)に発令されたのが1933年8月28日であり・・ただし、マクマレーのラトヴィアへの信任状の奉呈は12月13日・・、一方、ケナンが駐ラトヴィア大使館勤務から新しく開設されたばかりの駐ソ連大使館勤務へと転じるのが、駐ソ連大使が任命される11月21日と同じ頃だとすると、同年の8月から11月にかけての3ヶ月間、ケナンは、マクマレーの部下であったことになり、その間に、マクマレーとソ連論や日本の対ソ政策について、じっくり話をする機会があったと考えられることです。
 マクマレーは、、恐らくはケナンから聞いた話と、マクマレー自身が駐ラトヴィア大使時代にロシア(帝政ロシアとソ連)について学んだこととがベースとなって、あの『覚書』を1935年に執筆した、と思われるのです。
 ケナンが、(1951年12月に駐ソ大使に任命される前、プリンストン高等研究所に出向していた)1950年にマクマレーの『覚書』を「発見」し、「心から共感を覚えたケナンは引退していたマクマレーにわざわざ会いに行っている」(*)のも、短期間とはいえども、彼がかつてマクマレーの部下であったことからすれば、ごく自然なことであると思えてきますね。
 (以上、事実関係は、以下↓による。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_F._Kennan
http://en.wikipedia.org/wiki/William_C._Bullitt
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC
http://books.google.co.jp/books?id=-NGAKe8j8XEC&printsec=frontcover&dq=John+Van+Antwerp+MacMurray;memorandum&source=bl&ots=zbi2tJm-zg&sig=KOvJ2n2WqlDxbyS6mrKfGbNEtAM&hl=ja&ei=VSSTTc35OIm2vwPCzfi8CA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CBwQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false、 
*拙著『防衛庁再生宣言』216頁 ) (太田)

3 終わりに

 ボルシェヴィキ政権が樹立された時点において、(仏伊のことは脇に置くとして、)日本はロシアの分割(シベリアへの緩衝国家の樹立)を目指し、英国はロシアの一体性を維持したままソヴィエト政権の打倒を目指したものの、前者は主として米国の妨害により、また、後者は、主としてロイド・ジョージの優柔不断からタイミングを逸することによって、どちらも失敗に帰したわけです。
 その後、英国は対ソ封じ込めに本腰を入れることはありませんでしたし、米国に至っては、ソ連に対して、ほぼ最初から事実上、そして1933年からは公的にも、友好関係を維持し続けたという始末であったのに対し、日本だけは、陸軍において、皇道派と統制派の間で(かつて英国が目指したところの)ソヴィエト政権の打倒をあくまでも追求するか、それとも封じ込めで我慢するか、という論争が戦わされた後、後者の統制派が勝利を収め、国を挙げて対ソ封じ込め政策を遂行することになります。
 その日本の政策を挫折させてしまったのが英国と米国であったこと、そして、遅ればせながら、今度は米国が英国とともに日本のそれまでの対ソ封じ込め政策を採用、遂行することとなったこと、はご承知の通りです。
 しかし、冷戦終焉/ソ連崩壊を経た冷戦後のロシアの専制的にして反動的な現在を見、その上で改めて振り返ってみると、ボルシェヴィキ革命直後、ロシア分割を目指した日本のもともとの政策こそ、最も優れていたのではないか、という感が否めません。
 ロシアは、東漸することを通じて、欧州の周縁的性格に加えて東アジア的性格を併せ持つこととなったわけですが、ロシアを地理的な意味での欧州部とシベリア部とに分割し、前者を欧州の周縁的性格へ、そして後者を東アジア的性格へ、とそれぞれ相対的に純化させることで、自由民主主義陣営の抱えるロシア問題を根本的に解決するもの、ととらえれば、日本のもともとの政策の戦略性と合理性は明らかでしょう。
 対ソ干渉戦争当時、日本の陸軍が、セミョーノフという、ロシア人とブリヤート人の混血児で、ジンギスカン帝国の再来を夢見た男を首魁とする緩衝国家の樹立を目指したのはそういうことだったに違いない、と思うのです。
 この政策の実現を阻んだのは、セミョーノフという人間の問題もさることながら、米英、とりわけ米国の指導層の人種主義的帝国主義意識に由来する日本に対する蔑視であり反感であったというのが私の考えです。
 なお、人間の問題と言えば、英国が推進したボルシェヴィキ政権打倒政策の鍵であったコルチャックだって同じようなものです。
 いや、レーニン以下のボルシェヴィキ政権の指導者達だって同じ穴の狢であると言ってよいでしょう。
 これらの人物群の中に、自由民主主義の信奉者は一人もいなかった、ということだけとっても、ロシアの底知れぬ闇を見る思いがするのは、私だけではありますまい。

(完)