太田述正コラム#4653(2011.3.29)
<ロシア革命と日本(その11)>(2011.6.19公開)

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 どうしてアルハンゲルスクに米軍がいたのでしょうか。

 ロシアのムルマンスク及びアルハンゲルスクの港には、軍需品や兵器が大量に集積されており、英仏両国はそれらがドイツやボルシェヴィキによって奪取されることを恐れていました。
 そこへ、1918年にはドイツの一個師団がフィンランドに上陸したので、ムルマンスクとペトログラード間の鉄道、更には戦略要衝の港たるムルマンスクや場合によってはアルハンゲルスクがドイツによって占領されるのではないかという恐れすら出てきたのです。
 このほか、英仏は、チェコ兵団の救出と東部戦線の再建も行おうとしました。
 そこで、兵力の余裕が少ない英仏はウィルソン米大統領に出兵を促したところ、1918年7月、同大統領はこれに同意します。
 そして、米兵5,000人を北ロシアに、そして8,000人をシベリアに派兵したわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War#Northern_Russia 前掲

 ですから、そもそも、日本においても、「シベリア出兵」ではなく、「ロシア(内戦)干渉戦争への参加」ととらえた方が良いのです。
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 「1931年、革命戦史を編纂する目的をもった特別委員会が、スターリンを長として設置され・・・<ソ連>政府が公定解釈をしめす意図が明らかにされ・・・もはや「<対独>東部戦線」的観点に立つ・・・解釈の存在は許容され・・・<なくな>った。・・・
 <次いで、>英仏政府が、ファシズムの侵略への「宥和政策」を通じて「防共大同盟」結成の可能性を示唆したことは、英仏帝国主義のロシア革命で演じた敵対的性格を一層明らかにする必要を、また日本軍部の中国大陸への武力的侵略の開始は、シベリア出兵で示した日本帝国主義の「掠奪的性格」を一層暴露する必要を、ソヴィエト・ヒストリオグラフィーにその任務として強調したのである。
 ところで、<そのようなソ連の>この30年代において、いぜんとしてアメリカの干渉政策にかんする限りは、・・・ウィルスンは不承不承、武力干渉に参加した、それはもっぱら日本に向けられた措置である、とする見方が通用していたことは意味深い。・・・すなわち、リトヴィノフ外相は、1933年11月2日、イズヴェスチア紙上で次のように声明していた。
 「・・・アメリカのシベリア出兵<は、>侵略的性格を有するものではなく、反対に日本の侵略を阻害することを任務とするものであることが立証せられた・・・」<と。>・・・
 <では、>対ソ干渉戦争問題をめぐるアメリカのそれの動向は、同じ時期にどのような様相を呈していたであろうか。アメリカにおいては、現実政治過程と<こ>の問題の歴史記述との関連度は低く、政治的必要から見ても、さらに精神的風土の面からも、権威による見解の等質化という現象の発生しなかったことはいうまでもない。それにもかかわらず、そこにおいて共通に見られる理解が存在していた。それは、第一に、アメリカの対ソ政策の性格は他の連合国--英仏日--のそれと区別さるべきであり、第二に、アメリカの対ソ武力干渉への反対態度は明確であったとするものである。この理解に立ちながら、何故にウィルスン大統領は、当初の態度を変更して、<19>18年7月に武力干渉への「参加」を決定するにいたったか、という点に問題関心は集中される。そしてこの点を究明するために、革命発生以後の歴史過程の実証的究明がなされ、その結果ウィルスンの干渉決定を導いた要因として、次の三つがあげられてきたのである。

 (1)連合国軍に属するチェコスロヴァーク軍約5万が、欧露からシベリア経由、ヨーロッパ戦場に移動途中であったが、たまたま18年5月末以来、シベリア鉄道沿線各地で、地方ボリシェヴィキと武力衝突状態に入り、その結果、チェコ軍の「殲滅の危険」が迫り、救援する必要が生れたという道義的要因
 (2)日本軍のシベリア出兵が既定のコースと観測され、この状況においては、むしろ共同派兵の形式によって日本の大陸攻撃の自由な実行を羈束することが得策と見られたという理由
 (3)英仏政府の度重なる派兵要請にやむなく譲歩した、という作戦の協調保持の必要

 以上三つの要因を指摘しつつ、多くはこれらの複合作用が、アメリカの政策過程に決定的な影響力をもったと理解するのである。
 ところで、このような・・・アメリカ・ヒストリオグラフィーの理解と、すでに見たソヴィエト・ヒストリオグラフィーの解釈との間には多分に相共通するものが存在して<おり、>・・・<先の大戦の後、>冷い戦争へと国際緊張が激化する以前においては、米ソのヒストリオグラフィーの間には、対ソ干渉戦争の基本問題、とくにアメリカの干渉政策の理解をめぐって、著しい対立のなかったことが・・・注意されねばならないであろう。」(251〜254)

→米国政府とソ連当局は、第一次世界大戦中に起こったボルシェヴィキ革命以来、第二次世界大戦後に米ソ冷戦が始まるまでの間、ほぼ一貫して精神的に擬似同盟関係にあったと言えるわけです。
 換言すれば、米ソが提携して第二次世界大戦を戦ったのは、敵の敵が便宜的に手を結んだのではなく、本来的擬似同盟国による論理必然的な成り行きであった、ということです。
 米国による日本の占領が、冷戦勃発に伴うところの、いわゆる逆コースが始まるまでは、ニューディーラー左派による容共的な形で行われたのは当然であったと言うべきでしょう。(太田)

 「しかし、<冷戦が始まると、ソ連で>1948年8月<に出た>論文・・・を皮きりに、「アメリカ帝国主義者」こそ対ソ武力干渉の「組織者」、「発起者」であり、革命以来一貫してソヴィエト政権打倒の目標をもち、干渉への共同参加者、日、英、仏に対してとくに「主導的役割り」を演じていたとするテーマ<が、>繰返しとり上げられ<るようになる>・・・のである。」(255)

→しかし、発育不全の米国の指導層も、ようやく自分達のソ連観が致命的なまでに誤っていたことに気づき、ここに米ソ間の精神的擬似同盟関係はついに解消されるに至るわけです。(太田)

(続く)