太田述正コラム#4651(2011.3.28)
<ロシア革命と日本(その10)>(2011.6.18公開)

-------------------------------------------------------------------------------
 ここで、フランス政府の姿勢に触れておきましょう。

 日本が提案したコルチャック政権承認について、パリで米英仏伊の四大国首脳による四人会議の席上、フランスのクレマンソー(M. Clemenceau)<(注12)(コラム#2884、3028)>首相は、オムスク(コルチャック)政府を全露を代表する政府として承認すべきであると主張し、ウィルソンとロイド・ジョージに難色を示されています。(以下の「」内を含め、137〜138による。)

 (注)Georges Benjamin Clemenceauであり、「M.」は名前の頭文字ではなく、ムッシュー(氏)を現す。1841〜1929年。首相:1906〜09、1917〜20年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Clemenceau

 「フランス政府のソヴィエト政権への敵意はとくに熾烈であり、ヴェルサイユ会議においても、クレマンソー首相は、米英首脳の提唱する<革命、反革命両派の話し合い>方式を排斥して、反革命派の代表のみが平和会議で交戦国ロシアを代表する資格あることを極力主張していたのである。そして、コルチャク政権に対しても、フランス政府は、その発足当時から友好的であり、名目的兵力とはいえフランス軍一箇大隊を西シベリアに派遣してコルチャク軍と協力せしめ、またジャナン Pierre Janin 将軍をしてコルチャク軍の指揮にあたらしめていたのである。」

 クレマンソーは、マキャベリストであり、
http://www.papermasters.com/clemenceau.html
かつ、元来は筋金入りの左派でした(ウィキペディア上掲)。だからこそ、彼は、極左たるボルシェヴィズムの恐ろしさを見抜いていたのでしょう。
 もっとも、後述するように、ボルシェヴィキへの憎悪は、当時のフランスの保守派、就中支配層が共通に抱いていた感情でもありました。
-------------------------------------------------------------------------------

 「<1920年>8月に入ると、コルチャク軍は総崩れの形勢となり、日本政府のもとにはオムスク政府のイルクーツクへの撤退準備の報道が伝わりはじめ、・・・この形勢にイギリス政府は、シベリア派遣軍の撤退方針を決定する。・・・ここでふたたび、日本のシベリア政策を・・・アメリカとの協力の有無を顧慮することなく、・・・極東ロシア三州の確保に集中せしめんとする軍部の意見が擡頭を見ることとなる。」(148)

→これから先も紆余曲折があるのですが、日本のシベリア出兵がその後どうなったかは、コラム#3772の「5 エピローグ」程度を頭に入れていただけば十分でしょう。(太田)

 さて、またもや時計の針が巻き戻されます。

 「ボリシェヴィキへの憎悪の念が最もはげしく、反革命援助に最も積極的なフランス、イタリーの支配層においては、ボリシェヴィキとの接触は一切否定され<たが、>・・・イギリスのロイド・ジョージ首相においては、革命、反革命いずれの側の代表をも・・・招請して、主張を開陳させる機会をあたえるべしとする立場がとられた。1918年12月31日の英帝国戦時閣議 Imperial War Cabinet は、<外相の>カーゾン卿 Lord Curzon of Kedleston 、<陸相の>チャーチルら、「干渉主義者」のとる反革命派支持の有力な主張を退けて、平和会議にのぞむべきイギリス政府の公式の態度として首相の立場を承認したのである。・・・
 <この>ロイド・ジョージの構想に、ワシントンの国務省は反対の意見であった。・・・
 <しかし、>ウィルスンは、ただちに彼<の構想>を支持する。・・・
 一方、・・・フランス支配層は、激しくこれに反撥を見せた。・・・
 <ただし、>ドイツ軍の降伏、その占領地域からの撤退と同時にソヴィエト権力の拡大活動<が>開始<し>、<1920年1月初頭、>ウクライナ方面で・・・、赤軍は・・・前進をつづけて<おり、>北部では、・・・ラトヴィアの首府リガが、ラトヴィア共産党の支配するところとなり、赤軍はまた、エストニア、リスアニア、白ロシアで進撃をつづけ、ドイツのスパルタカス団との職説連絡の可能性も大きくなっていた・・・<上>、中欧の敗戦国内部の社会不安は次第に険悪化し、プロレタリア革命の気運は高まっていた<ところ、これを放置するわけにはいかないという認識は、米英仏伊が共有していたところであった。>」(203〜206)

→ロイド・ジョージのこの態度は、後述する理由から、ウィルソンの態度以上に不合理なものであった、と言ってよいでしょう。(太田)

 「<案の定、コルチャクらの反革命政権も、ロイド・ジョージ/ウィルスン提案の会議への参加を拒否する。>・・・
 ウィルスンとロイド・ジョージがそれぞれパリを離れた機会をとらえ、・・・イギリスのチャーチル陸相<は、独断で、列強に対し、>ロシアの隣接諸国、ならびに反革命政権と協力して、軍事行動をとる実際的可能性を検討することを、その目的とする・・・委員会・・・の設立を提唱した。・・・
 ロイド・ジョージは、チャーチルに宛て、ただちに<叱責の>電報を送る。・・・
 ハウス<大佐も>、・・・<そんな>委員会に、アメリカは参加する意思のないこと・・・を明白に告げる。・・・
 <ロイド・ジョージはともかくとして、ウィルスンがボリシェヴィキに宥和的であったのには、若干の理由がなきにしもあらずだった。>
 <ウィルスン自身の甘いボリシェヴィキ観(太田)は論外としても、一つには、ロシア内に有力な反革命勢力が存在していなかったことに加えて、>当時北ロシアのアルハンゲルスク・・・地方に、約4千のアメリカ軍が、英仏軍とともに派遣されて<おり>、対独勝利の後も駐留がいぜん継続することに、兵士は・・・疑惑を示しだしていた。・・・<しかも、>赤軍が<接近してきていたことがあげられる。>・・・
 <すなわち、こういう状況下で、>北ロシア米軍<を>早期撤退<させることにはしたものの>・・・撤退は・・・春の解氷期まで技術的に不可能な状態にあった。そこで、・・・時を稼ぐため、・・・ソヴィエト政府との休戦協定締結に・・・<ウィルスンは>意欲<を>・・・しめし<ていた、というわけである。>」(209〜214)

 「<そうこうしているうちに、>コルチャク軍の進撃の成功<があり、これを見たウィルスンは、>協定による<ボリシェヴィキ>「封じ込め」構想<を>放棄<し>、コルチャク、その他の革命軍の援助強化へと政策を転換<し、同様政策を転換した英国とともに>武力による、ソヴィエト政府の崩壊を期待<す>ることとなる。<その期待は裏切られるわけだが、>かくしてアメリカ、ソヴィエト両国間の・・・和解と協定の機会は失われ、両国の正式の国交開始は、1933年の秋まで待たねばならぬこととなる。」(229)

→繰り返しますが、たまたま不幸にしてウィルソンとロイド・ジョージというバカ殿をそれぞれいただいていた米英両国は、こういう経過を辿り、もともとやる気十分であった仏伊両国、そしてせっかくやる気を見せた日本、と協力してボルシェヴィキ政権(赤露)を蕾のうちに粉砕する機会を永久に逸してしまったわけです。(太田)

(続く)