太田述正コラム#4647(2011.3.26)
<ロシア革命と日本(その8)>(2011.6.16公開)

 (いきつもどりつする、細谷のこの本の構成から、以下、時計の針が過去に巻き戻されます。部分的に今まで紹介してきた部分との重複も生じますが、あしからず。)

 「<1918年>8月中旬、日本軍を主力とする連合国部隊<が>・・・ウラディヴォストークに上陸を開始する・・・<前の>8月上旬、・・・イギリス政府は・・・アメリカ政府に、チェコ軍の救出に失敗した場合の「破滅的結果」に注意を喚起して、「日本軍のプランと兵力数についての協定に変更を加える」よう申入れを行ったのである。
 この申入れは、アメリカ政府のにべない拒否にあうが、しかし、日本政府に対する同様な申入れは、・・・日本の・・・大軍<の>極東ロシア全域<への>展開<をもたらした。>・・・
 <ただし、実際には、>チェコ軍は、訓練、装備、いずれの面でも、ボリシェヴィキ軍に対して圧倒的に優勢であり、そこには伝えられる「殲滅の危険」などは存在していなかった。もっとも8月末からは・・・形勢<が怪しくなってきた。これ>は主として、チェコ軍の一般兵士が、当初の行動目標であるヨーロッパへの帰還を求めて、ロシア内戦への介入の意欲をとみに減退させたことに起因したものであり、したがって、シベリア鉄道の輸送障碍も除去されたことでもあり、最初の方針にしたがって東方への移動を再開、ウラル地域を離脱すれば、殲滅の危険はたちどころに消散するはずのものであった。
 しかし、チェコ軍の東方への撤退は、いうまでもなく、チェコ軍の武力を支柱にして存立している反革命政権にとってはその崩壊を意味する。・・・「チェコ軍の危機」の実体とは、これら反革命派の危機に他ならなかったのである。・・・
 英仏政府にとっては、「チェコ軍の危機」とは、実は日米の政治指導者に訴えて両国軍隊の西部シベリアへの派兵を実現し、本格的な反ソ武力干渉軍を組織するための説得の論理であり、また世界の世論に対して武力干渉を正当化するための口実に他ならなかったわけである。」(87〜89)

→前にも述べたように、この時点では、英国は、第一義的には対独戦を完遂するために米国と日本をシベリア出兵させようとしたわけであり、ボルシェヴィキの撃滅は第二義的な目的であったところ、第一次世界大戦終了後、第二義的な目的が全面に出る形で、対ソ干渉政争を続行しようとするわけです。
 フランスについては、後述します。(太田)

 「寺内内閣のシベリア出兵政策の推進力であった参謀本部は、・・・極東ロシアに緩衝地帯を形成して、国防の安全を確保<す>・・・ることを、その出兵目標としていた。したがって、・・・参謀本部は、バイカル以西に派兵地域を拡大<することには>・・・反対の態度をとっていた。・・・
 <新首相となった>原<敬もそうであった。>
 ウィルスンも<また、そうであった。そのウィルスンは、上記の日本のシベリア出兵の真の目的にも反対であったが、>この時期に・・・抗議通告を日本側に行わな<ず、11月までこれを延期するが、>その・・・根本的な理由は、・・・「日本ではじめて出現した民主主義的政党内閣」と高く評価した、原内閣に対して・・・期待した<から>であろう。シベリア出兵政策をめぐって、日本内部で二つの勢力、文官派対軍部、あるいは自由主義勢力対藩閥勢力が対立しているとのイメージをもつ、アメリカ政府にとっては、文官派、もしくは自由主義勢力が政治的優位にたつことは、日本のシベリア政策が日米提携の線に近づくことを意味するものと見られ<たのである。>」(90、92、94、96〜97)

→この、日本の指導層が自由主義/親英米派と軍国主義/反英米派からなっているという誤った見方を米国は第二次世界大戦に至るまで抱き続けることになります。やがて英国の指導層の多くもこの見方を抱くに至るわけです。
 これが「誤った見方」であるのは、私が累次申し上げているように、戦前期の日本には、(自由民主主義/反露なる)横井小楠コンセンサスが成立しており、指導層内では、このコンセンサス遂行の方法論をめぐっての議論、対立があっただけだからです。
 ただし、指導層の中には、このコンセンサスの理解が不十分な向きもなきにしもあらずであり、そのような者は、外務省キャリアに特に多かったということも、かねてより指摘してきているところです。
 首相になる前の(外務次官あがりの)原敬もまたそうであった、ということが、この後を読めば分かります。(太田)

 「<しかし、予想を裏切られた米国政府は、結局、11月16日、抗議通告を行う。その時、>原首相と参謀本部との中間に介在して、・・・参謀本部側を譲歩に導く役割りを担当したのは田中<義一>陸相であったろう。
 <こうして、>原内閣におけるシベリアからの兵力削減政策<が>決定<された。>・・・
 ここで強調されねばならないのは国家財政上の要請である。すでに対独参戦以来、予算規模にしめる軍事費の割合は増加し、大正7年度には43.2%の多きに達していたが、シベリア出兵の実行によって、その割合いは一層増加、原内閣によって議会に提案される新年度予算案では50%を超え、公債を発行する事態が予想されるにいたっていた。」(102〜103)

→この時点では、日本は東アジアにおいて、単独でボルシェヴィキ(赤露)に対抗する国力はなかったということです。
 日本は、その後、対抗することができるようになったのですが、今度は米国に文字通り背後から足をすくわれることになります。(太田)

 「<ところで、極東ロシアに緩衝地帯を形成する日本政府の方針であるが、>参謀本部は、<1918年>8月末、・・・セミョーノフ<(注9)>、ガモフ、カルムィコフを、それぞれザバイカル州、アムール州、沿海州における軍事力の指導者として、コサック軍隊約6万を組織し、この軍事力を支柱に、極東ロシアで反ボリシェヴィキ勢力の権力統合をはかる方針を明確にしていた。とくにセミョーノフの率いるコサック軍隊には、参謀本部の大きな期待が寄せられていたのである。」(105〜106)

 (注9)グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ。1890〜1946年。「東シベリアのザバイカル州クランツカでコサックの父とブリヤート人の母の間に生まれた。・・・ロシア革命当時ザバイカル・コサックの統領(アタマン)<とな>り、極東三州の独占的利権を確立しようとする日本軍参謀本部によって、反革命勢力の軍事指揮官に擁立された。・・・赤軍に押されてオムスク政府が崩壊する際、500トンとも言われる帝政ロシア中央銀行の金塊の一部を入手して日本の朝鮮銀行に輸送した。・・・1921年にウラジオストクを脱出した後上海、アメリカ、日本を転々とする。1945年8月、大連にいたセミョーノフは赤軍に捕縛され、1946年8月モスクワで国家財産略取のかどで絞首刑を執行された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%95

 「原首相は在野時代、<この寺内内閣の方針>について極めて批判的であ<った。それどころか、>同じころ原<は、>・・・決して社会主義を容認するものでなく、否「民主主義の勃興」すらこれを恐れていたが・・・内田(康哉)<駐露>大使らの情報にもとづいて・・・山県、寺内に・・・「レニン政府も必ずしも敵視すべきものに非ず」、あるいは「過激派は全露に勢力を有し居るは事実にて之に対抗すべき穏和派は無勢力なれば日本の政策としては過激派の反感を醸すは不得策なり」と・・・語っていた・・・。」(107)

→原が、典型的な外務省キャリアとして、「民主主義の勃興」、すなわち世論の力が大きくなることを嫌っており、かつまた、赤露認識においてもまことに不適切であったことが分かるくだりです。(太田)

 「<その原敬が首相になると、寺内内閣の方針を所与のものとした上で、しばらくすると、極東ロシアに緩衝地帯を形成することを通り越して、英仏ばりの反ソ武力干渉>政策の方向<に舵を切ろうとすることになる。>」(109)

→その原が、首相になると君子豹変するわけです。(太田)

(続く)