太田述正コラム#4643(2011.3.24)
<ロシア革命と日本(その6)>(2011.6.14公開)

 「とくに対日不信感を強めたのはアメリカ陸軍である。・・・
 シベリアへの連合国の共同出兵は、この地で専制政治の復活を助け、また日本の勢力拡大目的に利用されているのではないか、これは、アメリカ派遣軍司令官グレイブス・・・Wkilliams S. Graves・・・が、アメリカ軍の駐兵に対しもっていた根本的疑念であった。・・・
 彼の目には、「ボリシェヴィキとは、ロシアで、専制政治の代表が権力の座に復活することに、言行いずれの面でも力をかさないひとびとをさす」ものと映っていた・・・。彼はまた、極東ロシアでの<ボリシェヴィキの>パルチザン活動は、その目標を主として、・・・「野獣のように徘徊して、人民を殺害、掠奪のかぎりをつくしている・・・コサック勢力(およびその背後の日本軍)の駆逐に向けているものと見ており、したがって彼らが鉄道運行に阻害をあたえないかぎり、これに武力を行使することを拒否する態度をとっていたのである。・・・
 日本への強硬措置の必要を説いたのは、陸軍のみではなかった、戦時通商局長官マコーミック Vance C. McCormick は、<第一次世界大戦終結目前の>11月8日、ランシング国務長官に意見をしるした。
 「・・・生糸の輸入を制限し、綿花と鉄鋼の輸出を制限することで、日本は経済的崩壊に直面するでしょう。ドイツにおける軍国主義勢力の消滅によって、今や日本の同様な軍国主義グループが指導している対露行動の黙認をやめるべき、またそれが可能な次期が到来したと思われます…」<と。>・・・
 <一方、アメリカ>国務省内部には、元来ボリシェヴィキ政権に対する強烈な敵意をもって、反革命勢力の援助、育成につとめていた、ロシア部長マイルズ Basil Miles を中心とする、いわば≪干渉派≫がいたと見られるが、彼らは、英仏の干渉勢力同様チェコ軍を利用する干渉政策推進を考えており、やがて西シベリアで、反革命派の全露臨時政府が樹立されると、その経済的援助に乗り出していたのである。したがって、この≪干渉派≫の目的にとって、極東ロシアでの日米共同出兵は、経済援助の補給ルート確保の面からも、あるいは反革命派への精神的鼓舞の面からも有用視されねばならなかった。」(62〜64、66)

→(第二次世界大戦の時と同様、ドイツ打倒を目ざして頭に血が上っていて、シベリア出兵もそのための手段と考える向きが多かった)英国などよりも、はるかに日本と同じ問題意識でもってシベリア出兵の必要性を認識していたグループが米国政府部内に存在した、ということです。
 しかし、派遣軍司令官の意向に影響されたと思われる米陸軍等、全く愚昧な情勢認識を抱いていたグループもまた米国政府部内には存在したわけです。
 問題は、彼らがすべて、人種主義的帝国主義に染まっていて、日本に対して侮蔑的敵意を抱いていたと考えられることです。(太田)

 「<11月11日に第一次世界大戦は終わった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 
が、結局、ウィルスンは米陸軍等の主張に軍配をあげたということなのであろう、>11月16日、ランシング国務長官は石井大使に抗議ノートを手交した。それは、シベリアにおける「日本軍の兵力数の過大」、「北満州およびザバイカル東部で日本の行なっている独占的管理」<等>を非難<する>・・・ものであった。・・・
 ・・・<これを受け、>原首相<率いる日本>・・・政府は、・・・12月19日・・・派遣軍総数を約2万4千名に引下げたのである。第二は、東支鉄道管理問題について、・・・原則的に国際管理方式を承認し・・・たのである(2月10日)。第三はコサック問題。<日本>政府は、アメリカの忌避するコサックのセミョーノフの自恣の活動に抑制を加えるよう、派遣軍に命令したのである。・・・
 かくて、日本政府の譲歩措置・・・は、・・・<日米>共同出兵の継続を支えたのであった。」(64〜66)

→人種主義的帝国主義者たるウィルソンやハウス大佐は、結局、陸軍等の主張に軍配をあげた、ということです。(太田)

 「<ところが、>19年に入<り、>・・・3月4日、有力なパルチザン部隊に遭遇して苦戦に陥っている日本軍の救援が乞われたにもかかわらず、これをアメリカ側が拒否し、つづいて3月20日、スーチャン炭坑でのボリシェヴィキ派労働者の武力蜂起に対し、アメリカ軍は鎮圧に乗り出さないばかりか、むしろ好意的態度をとったと見られたことは、日本派遣軍内部に憤激の嵐をひきおこすものであり、両軍の反目は激化していた。・・・
 アメリカ派遣軍への不満<により、>、・・・西シベリアのオムスクで、18年秋成立したコルチャク<(注5)>独裁政権側も・・・アメリカ政府に抗議の申入れを行なっていた。また、・・・シベリア出兵の大規模な反ソ軍事行動への発展をひそかに期待し、またコルチャク政権の強化に力を入れていたイギリス政府の失望もひきおこ<し、>・・・連合軍の共同軍事行動を要望する申入れが、イギリス側からアメリカ政府になされ<た>・・・。・・・
 グレイブスの・・・態度は、アメリカ政府内部、とくに国務省の≪干渉派≫からも歯がゆいものと批判されねばならなかった。すでに<アメリカ政府は>コルチャク政権への物的援助を実施して、その政権の支持に乗り出してい<たからである。>」(67〜68)

 (注5)Aleksandr Vasiliyevich Kolchak。1874〜1920年(銃殺)。英国の慫慂もあり、曲折を経てロシア内戦における白軍のうちの多くの総帥となる。自らの手で海軍大将に昇任。チェコ兵団と最初連係しつつも後に同兵団は離間し、シベリアを緩衝地帯にしたかった日本軍も、コルチャックを専制的と見た米軍も、コルチャックに積極的支援を与えなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aleksandr_Kolchak

→ドイツが打倒され、大戦が終わったわけですが、にもかかわらず、ようやく、英国は、そのロシアに対する生来的敵意が、ボルシェヴィキへの警戒感と相俟って、かつてよりも更に募った形で蘇ったのでしょう、改めて、英国は、米英日による対露、改め対赤露包囲網を形成しようと米国に働きかけたわけです。(太田)

(続く)