太田述正コラム#4640(2011.3.23)
<ロシア革命と日本(その5)>(2011.6.13公開)

 「1918年8月初め、日米両国政府は極東ロシアへの共同派兵について宣言を発表した。・・・
 一ヶ月前の7月8日、石井(菊次郎)駐米大使を招致したランシング R. Lansing 国務長官は、「ウラディヴォストークのチェコ軍<(注4)>に救助の手をさしのべ、これを西部シベリアの友軍と連絡させる」目的で、彼らに武器・弾薬を供給するのみならず、「その交通線を守備するため、それぞれ約7千名のアメリカ軍と日本軍とから成る軍隊をウラディヴォストークに集結する」ことを内容とする、いわば目的と兵力数、地域を制限した≪限定出兵≫の提議を日本政府に行なったのである。
 <この>方針は、7月6日の最高会議で決定されたものであった。・・・
 チェコ軍は5月末、ボリシェヴィキ軍とシベリア鉄道沿線地域で武力衝突を開始していたが、彼らは軍事的に圧倒的優勢であり、反革命政権を各地で擁立していたにもかかわらず、西シベリアからは、チェコ軍の殲滅の危機についての歪曲、誇張された報道が連合各国に伝えられ、誤ったイメージを創り出して、チェコ軍救援熱を煽っており、もももとチェコ民族に同情の念が強いウィルスンの判断に大きな影響力をもったと見られている。
 元来、ウラル方面で「東部戦線」の形成を熱望していた英仏政府にとって、チェコ軍とボリシェヴィキ勢力との武力衝突は、所期の目的実現のために好個の事態と見られたのであり、したがってこれを機に両国政府は「チェコ軍救援」の効果的なアピールを用いて、日米両国政府にそのシベリア出兵を強く迫・・・っていたのである。・・・
 アメリカ提案を機に≪自主出兵≫の実現をもくろむ陸軍とこれを支持する政府の方針は、外交調査会において、原敬、牧野伸顕らの、アメリカとの協調を重視して、≪限定出兵≫方式に同意すべしとする主張の抵抗をうける。外交調査会の論議を考慮した政府は、結局、最終回答でアメリカ提案に「欣然応諾」する。しかし、回答は同時に「チェコ軍支援のためウラディヴォストーク以外に出動し、かつ形勢の発展に伴い増援するの必要あるべきを予想する」との字句を入れたものであり、それは自主的行動の含みを残すものであった。回答の本質は、むしろあくまでも≪自主出兵≫の基本的立場に立ちながら、同意の形式をとりつくろったものといえよう。」(59〜61)

 (注4)チェコ兵団(Czechoslovak Legions)については、コラム#3770参照。なお、詳細は下掲。
http://en.wikipedia.org/wiki/Czechoslovak_Legions

→細谷は、「かねて軍事的手段で日本の支配力を東北アジアで確立することを望んでいた、陸軍を中心とする膨張主義勢力」(60)と記していますが、その直接的な典拠は示されていません。
 細谷自身が引用するところの、「たとえば7月下旬、上原(勇作)参謀総長から大井(成元)第12師団長あての指示にもしめされてい<るところの、>「チ軍の救援を主目的とすることは従来主張せる国防上の目的よりする軍事行動と合致せさる点あり…出兵の動機殊に対外関係上政府の意見を容れ暫くチ軍救援の理由として記述す」」(61)を素直に受け止めれば、帝国陸軍・・日本政府と言ってもいいでしょう・・の出兵は、かねてより日本の第一の仮想敵国であったロシア、そして日露戦争の結果その意図と能力において敵性が減じていたところのロシア、の全土にボルシェヴィキ権力が樹立されることは、ロシアの日本にとっての敵性を顕著に増大させる恐れがあることから、これを防止するための、ボルシェヴィキ政権の打倒、さもなくば、最低限非ボルシェヴィキ緩衝国家のシベリアにおける樹立(下掲及びコラム#3770)を実現する、という国防(安全保障)目的のものであったのであり、それを膨張主義と形容することは不適切である、と思います。(太田)

 「かくて、見せかけの≪合意≫の本質はただちに露呈されねばならない。すでに自主的派兵の準備を進めていた日本陸軍は、共同出兵が開始されて1月もたたない8月下旬、「チェコ軍殲滅の危機」を理由に、兵力増加とザバイカル州方面への派兵の実行に移り、9月上旬にイルクーツク付近で、東西のチェコ軍が合流し、「チェコ軍殲滅の危機の情勢」は完全に解消したにもかかわらず、ひきつづき増援部隊を極東ロシア3州に送りこんでいたのである。やがて北満から極東ロシアにかけて展開した日本軍の総数は7万2千名に達する。そして、この厖大な兵力を背景に、日本陸軍は、極東ロシアで自治政府樹立工作を進め、北満ではこれを日本の特殊地域として排他的支配権を獲得する目標のもとに、アメリカ軍の進駐を拒否し、また東支鉄道の管理については、アメリカ技師団の干与を排除して、日本の独占的支配のもとにおく方針が進められたのである。」(62)

→日本の強い決意がうかがえます。9月末(29日)には原敬が首相に就任します
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
が、彼は前内閣の出兵方針を踏襲し、それを一層強力に推進して行くのです。
 原は、「8月に・・・全国的規模で、米騒動が発生、つづいて労働争議も頻発しており、・・・これら運動の上にロシア革命の影響を見た・・・<ことから、>ボリシェヴィズムとの対抗」(65)の必要性に目覚めたに相違ありません。
 情勢の変化に応じて自分の考えを柔軟に変えていくことができたことは、原の政治家としての器の大きさを示すものです。(太田)

(続く)