太田述正コラム#4633(2011.3.20)
<ロシア革命と日本(その3)>(2011.6.10公開)

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<挿話>

 「<1918年の初め、英国は、ボルシェヴィキ革命後のロシアがドイツと講和すること妨げるため、30台のスコットランド人、ロバート・ブルース・ロックハート(Robert Bruce Lockhart)<(注2)>を英国代表としてモスクワに送り込んだが、結局ボルシェヴィキ政府は3月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結んで戦争から脱落してしまう。
 そこで、ロックハートは、今度は、ボルシェヴィキ政府を打倒してドイツとの戦争を再開してくれる政府を樹立しようとした。>
 <1918年の>5月末、英国は小規模の部隊を北部ロシアのアルハンゲリスク(Archangel)に派遣することにした。
 公式には、その目的はロシアに提供された何千トンもの英軍装備がドイツの手に落ちることを防ぐためだった。・・・
 しかし、当時の史料は、その後、クレムリンを防護している20,000人の優秀な(crack)ラトヴィア人部隊に5,000人の英軍部隊が加わってヴォルシェヴィキに反旗を翻させることができる、という想定の計画が立案されたことを示唆している。・・・
 1918年の夏の終わりには、モスクワでレーニンを暗殺する試みが行われた。
 彼は、至近距離から一人の若いロシア人女性によって二度撃たれたのだ。
 <レーニンは重傷を負ったが死ななかった。>
 ボルシェヴィキの秘密警察であるチェカ(Cheka)は、ブルース・ロックハートをその数時間後に逮捕し、クレムリン内に連れ込んで尋問した。
 <ロックハートが使っていた工作員の一人であった、ロシア人のシドニー・レイリー(Sidney Reilly)(注3)>は、この時チェカの手を逃れたが、数年後、ロシアにおびき出されて<尋問を受けた後、>射殺された。
 チェカの記録によれば、ロックハートはレーニンを殺しボルシェヴィキ政府を打倒せよとのロンドンが指示した企みの一部に係わっていたことを自白した。
 彼は、1918年10月初め、この英国のモスクワ代表は、ロンドンにおけるロシア代表との交換で解放された。・・・
 ・・・それから90年以上経ったが、英国政府は<当時の>秘密の多くを今だに開示していない。
 ・・・それはすべて、ロックハート流の企てをロンドンが奨励(countenance)したことなどいまだかつてない、という神話を維持せんがためだ<、と指摘するむきもある。>・・・」
http://www.bbc.co.uk/news/world-12785695
 (3月20日アクセス)

 (注2)1887〜1970年。ブルース一族やウォレス一族(コラム#4570)等のスコットランド貴族の血をひく。
 彼は、マラヤで親戚のゴム・プランテーション事業に従事した後、英外務省に入り、モスクワの副領事代理をしていた時にロシア革命が起こり、11月革命直前に本国に戻っていた。
 その彼を、英国の初代のヴォルシェヴィキ政府への代表として送り込んだのは、時の首相のロイド=ジョージと陸軍卿のミルナーだった。
 彼は、ヴォルシェヴィキ政府に対し、日本の陸軍をソ連領内に入れて東部戦線でドイツと戦わせることを認めるよう説得するよう命ぜられたが、それに失敗した。
http://en.wikipedia.org/wiki/R._H._Bruce_Lockhart
 (注3)1873/74〜1925年。ユダヤ系ロシア人。もともとの名前はGeorgi Rosenblum。日露戦争中、大連で英国及び日本の諜報員として活躍。彼と支那人協力者が盗み出した機雷敷設図が日本の海軍に渡され、そのおかげで大連港への奇襲が成功した。その後、ペルシャやドイツでも英国の諜報員として活躍。この間、兵器ビジネスにも手を出すとともに、多数の女性と浮き名を流した。イアン・フレミングが生み出したジェームズ・ボンドは、レイリーをモデルにしている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sidney_Reilly

→英国が、1918年当時、全力を挙げてボルシェヴィキ政府を打倒しようと決意しており、日本にシベリア出兵を慫慂したのは、そのためであったことを裏付ける史実ですね。
 蛇足ながら、「ロバート・ブルース」・ロックハートという名前、彼の父親の名前でもあります(ウィキペディア上掲)が、傑作ですね。(太田)
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(続く)