太田述正コラム#4627(2011.3.18)
<ロシア革命と日本(その1)>(2011.6.8公開)

1 始めに

 XXXXさん提供の、細谷千博『ロシア革命と日本(近代日本外交史叢書第4巻)』(原書房 1972年)のコピーから、XXXXさんが付箋をつけ、傍線を引いた箇所に基本的に限定してご紹介をし、私のコメントを付けようと思います。

2 ロシア革命と日本

 「<1917年>12月中旬から下旬にかけて、日本政府内部にはロシアの新事態<(11月革命=ボリシェヴィキ革命)>に積極的に対応すべしとする有力な見解が擡頭していた。本野外相を中心とする勢力であった・・・。
 ロシアの情況は漸次ドイツ勢力の左右するところとなっており、ウラディヴォストークの軍需品の保護の目的で、またはドイツによるシベリア鉄道支配を阻止する目的で、日本は軍事力行使の必要があるというのが、本野のシベリアまたはウラディヴォストークへの出兵論の根拠であった。」(10〜11)
 「いち早く行動計画の準備に着手したのは日本陸軍の参謀本部であ<り、>・・・沿海州に臨時編成の混成約1旅団(主力はウラディヴォストーク、一部はハバロフスクその他要地にに配置)を派遣して、居留民の保護と鉄道・電線の掩護にあたらしめ、また北満州にほぼ同一の兵力(主力はハルビン、一部はチチハルその他の要地に配置)を派遣して、同じ任務の遂行にあたらせるという方針を明らかにしていた。・・・
 <また、>シベリア鉄道沿線での情報蒐集活動の方針を決め、この活動に従事する将校を、ウラディヴォストークからイルクーツクにいたるシベリア鉄道沿線、その他の要衝に派遣しはじめる。当時参謀総長は上原勇作、次長は田中義一であったが、シベリア派遣計画の立案にあたって中心的役割を演じたのは田中次長であり、彼はまた陸軍内部のシベリア出兵政策の推進力であった。・・・
 参謀本部<の>・・・中島正武第二部長・・・はやがて翌年1月、自らシベリアから北満の情況を視察するとともに、日本と協力してボリシェヴィキ勢力に対抗し、極東ロシアで自治政権を樹立しうる能力と意思をもつ反革命勢力の物色と、その擁立の任務を帯びてシベリアに赴くこととなる。さらにシベリア出兵への世論の支持を獲得するため、ドイツ勢力の東漸の危険について警鐘を鳴らすといった工作も、ひそかに参謀本部の手で進められたのである。・・・
 <ところが、>本野の意見は外交調査会の容れるところとならなかった。メンバーの多数は出兵に懐疑的であり、中でも政友会総裁の原敬は、ドイツがシベリアを策源地として日本を攻撃する危険が増大したことで自衛上やむなく派兵するといった場合ならとも角、単に「ドイツの勢力がロシアに加わるとか、連合国より請求があったというだけで出兵し遂に大戦にいたるようなことは避けるべきである・・・」と強い反対論を展開していた。このような外交調査会の空気に加えて、未だアメリカの方針は明確でなく、首相寺内正毅は慎重な態度を持して動かなかった。」(14〜15)

→外務省(本野)より帝国陸軍(参謀本部)の方がはるかに的確な情勢判断をしており、しかも、後者は、かかる情勢判断に基づき、鋭意、現地の情報収集と(外務省の掲げるタテマエ論的な出兵論による)世論工作に乗り出したわけです。この時点で、既にいかに外務省が無能な状態に陥っていたかが分かろうというものです。
 外務省出身の原敬が、外務省のタテマエ論的出兵論を所与のものとして、慎重論を唱えたことは、上記私の主張を裏付けるものです。(太田)

 「日本海軍当局はシベリアの事態の発展にかんがみ、12月中旬頃からウラディヴォストークへの軍隊派遣問題についての検討をはじめていた。・・・
 <イギリスは>巡洋艦サフォークのウラディヴォストークへの派遣<を>18年1月1日の・・・戦時閣議で決定<した。>・・・つづいて同地に進発できるよう歩兵2個中隊を香港に待機させた。・・・
 イギリスに先を越された寺内首相の心中は穏かでなかった。「怪しからぬ。こうなれば何でもかでも我軍艦を先ず浦港へ入れねばならぬ」。翌4日、石見、朝日2艦のウラディヴォストーク派遣は正式に閣議決定を見ていた。」(18〜19)

→当然、陸軍の情勢判断と英国政府の情勢判断は合致し、この頃はまだまともであった帝国海軍もまた、同様の情勢判断をしていた、ということです。
 陸海軍の情勢判断が一致しており、かつ同盟相手の英国政府が要請してきた、とあれば、日本も軍艦派遣に踏み切らざるをえなかったわけです。(太田)

 「本野外相は今回の措置の主旨は、「専ら政府当然の責務たる自国人民保護」にあ<る>・・・<との>訓電を・・・菊池<ウラディヴォストーク>総領事<に>・・・発していた。
 <しかし、>1月6日、加藤海相から・・・第三艦隊司令長官<等>・・・に口頭であたえられた訓示要領は・・・「過激派レーニン派に対しては之を援助せさるは勿論、成るへく早く其勢力を失墜し温健派の代りて政府を建立せんことを切望する所なり・・・」とのべ<ている。>」(20)

→軍艦を派遣することになっても、依然として外務省は寝ぼけたようなことを言っていた、ということが分かります。(太田)

 「アメリカ政府は、イギリス側の度重なる要請・・・にもかかわらず、シベリアでの軍事干渉には消極的態度を崩すことはなかった。しかし日英両国の軍艦・・・派遣という事実に直面し・・・ランシング・・・国務長官は・・・アメリカ軍艦ブルックリンのウラディヴォストークへの回航の方針を<打ち出した。>・・・日本の軍艦に単独行動を許すべきでない、・・・ブルックリンの存在によって、日本側の行動に制約を加えるべきであるというのが<その>考え方であった。・・・
 日本軍艦のウラディヴォストーク派遣は、現地の政権、多数のロシア人の反撥をひきおこしたのみならず、・・・このように・・・共同交戦国アメリカからの強い不満を買っていたが、派遣にさいして日本海軍当局の意図した・・・効果はたしかに生まれたように見えた。この地でのボリシェヴィキの活動は不活発となり、反対に反ボリシェヴィキ派は軍艦の威力をたのみに次第に勢力回復の兆をしめしてきた。」(22〜23)

→人種主義的帝国主義国たる米国は、赤露の潜在的脅威など眼中になく、何と自国の軍艦派遣を、もっぱら日本を掣肘することを意図して決定した、というわけです。
 米国は、第一次世界大戦を英日とともに戦っていた最中でしたが、英国と日本は、もともとは、それぞれ仮想敵国の第一と第二であったところ、英国の方は当時まだ一応世界覇権国でしたし、同じアングロサクソン国であったことから、さすがに英国を掣肘することまでは考えなかったのでしょう。(太田)
 
(続く)