太田述正コラム#4618(2011.3.15)
<ニッシュ抄(その8)>(2011.6.5公開)

 「高橋是清・・・は1934年11月に途中からまたもや蔵相として<斉藤内閣の後の>岡田内閣に加わったが、そのころにはすでに日本の経済不況は和らいでいた。できるだけ早く正常な財政に復帰する必要があると感じていた高橋は、軍部の指導者に軍事予算の抑制を強く要請し、陸海軍費の増大に反対した。彼は軍指導部と意見の対立をみたために、斎藤前首相同様、<1936年の二・二六事件の>反乱将校の標的となり殺害された。岡田首相は辛うじて難を逃れた・・・。」(160)

→ここは、コラム#4515での私の二・二六事件観をもう一度振り返ってみて下さい。(太田)

 「後継内閣首班の大命は初め近衛文麿貴族院議長に下ったが、彼はこれを健康上の理由で拝辞したので、外交官出身で外相経験のある広田弘毅<(廣田弘毅)>が大命を拝受した。広田は・・・1年足らず(1936年3月から1937年1月まで)内閣を率いることになる。1930年から1932年まで駐ソ大使であったことが、彼が元老の眼鏡にかなった一つの理由であったかもしれない。広田<は>・・・吉田茂の名前も外相候補として挙<げ>ていた<が、>・・・陸軍は吉田の起用に反対して、・・・陸相候補とされていた寺内寿一大将は、余りにも自由主義的と思われる内閣に仕えることはできないと、陸相就任を拒んだ。このため広田は吉田を駐英大使として、外相には有田八郎をもってくることにした。」(160〜161)

→1878〜1948年。東大法卒。廣田は、斉藤内閣、岡田内閣(第一次、第二次)の外相を1933年9月〜36年4月の間務めています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
が、彼の1936年1月21日の外相演説(コラム#4427)に明確に現れているように、彼は、陸軍ひいては日本世論と赤露観を完全に共有しており、これこそ、彼が、陸海軍から侮蔑されるに至っていた外務省の人間であったにもかかわらず、首相に選ばれ得た理由でしょう。
 (なお、駐ソ大使を経験しても東郷茂徳のように、まともな赤露観を抱くに至らなかった外交官が少なくなかった(コラム#4534)ことを我々は知っています。)
 しかし、廣田の外相時代の天羽声明問題への大甘の対処ぶり(コラム#4378)といい、また、彼が首相に擬された時に、戦後、吉田ドクトリン自民党バージョンの生みの親となる吉田茂・・廣田と外務省同期・・を外相に据えようとし、それに失敗するや、戦後、吉田ドクトリン社会党バージョンの「先覚者」となる有田八郎(コラム#4374)を外相に据えた・・当然のことながら、この二人にはその前兆があったに違いないと考えられる・・ことといい、廣田もまた、個人エゴと出身組織エゴの追求を旨とした典型的な外務省的人間の一人であったと言わざるをえない、と私は思うのです。
 (陸軍は、吉田については人物を把握していたけれど、有田については把握ができていなかったということでしょう。)
 クレイギーもまた、廣田をこんな風に見ていたのではないでしょうか(コラム#3958参照)。(太田)

 「日本人の大多数は・・・<ドイツとの>防共・・・協定が同盟となることを望んでいなかった。日本が協定に引き込まれていったのは、ヒトラー主義のドイツの賞賛者であったからというよりも、ソ連に対して脅威を感じていたからである。・・・
 <しかし、この>防共協定は、外部の世界から見ると、巨大なこけおどし以上のものに見え、日本が枢軸ブロックへ加入した象徴のように思えた。この印象がおそらくもっとも大きな意味をもったと思われる。・・・協定に関する誇張された印象が世界に広がるに任せたのは、日独両国にとって賢明なことではなかったと思われる。・・・実際には、協定によって与えられた実益はほとんどなかったのである。」(165)

→まことにもってそのとおりです。
 なお、ニッシュは、「日独両国にとって」ではなく、「日本にとって」と記すべきでした。(太田)

 「軍備制限条約から脱退した<状況下で、>・・・日本の情報機関は、ソ連が戦車と飛行機を備えた兵力の増強を行っているという精確な情報を入手していた。参謀本部はその国防政策を準備するに当たって、対ソ「非進攻政策」[「我より積極的に進攻政策を執らざるを本意とす」[聯合艦隊1]295ページ]を採用することを望み。予算も単に満州国と華北における陸軍の立場を補強するだけの予算を求めた・・・。」(166)

→私がかねてより力説しているところですが、戦後米国が追求した対赤露(対ソ)冷戦戦略を、戦前の日本、より正確には帝国陸軍(の統制派)、は先駆的に追求していたわけです。(太田)

 「新帝国国防方針は[1936年]6月に制定されたが、・・・初めてイギリスを想定敵国として含めることに<なった。>・・・<そして、>五相会議<で>・・・8月7日・・・「国策の基準」と「帝国が移行方針」<(コラム#4429)が採択され、その>・・・4日後に・・・「第二次北支処理要綱」<が採択された。これらの>・・・文書は、政策として一つのまとまった群を形成していた。具体的には、日本と国民政府は共産主義の根滅のために協力し、また、冀察政権をめぐる緊張を含めて広範囲にわたる政治、経済上の問題を相談するという政策であり、また、中国に欧米依存を放棄するよう促すというものであった。・・・
 日本の対中国政策には反共意識が反映されていた。この意識は単に対ソ、対韓、対満関係に見られただけではなかったのである。中国を共産主義から救うという使命感が、一本の強い糸として日本の文書を貫いている。このような意識は次第に家父長的な政策を採らせることになるが、そのような政策は中国で成長しつつあった国民主義的な精神と相容れるものではなかった。
 日本は中国において二重の格別の懸念を抱えていた。国民党と共産党が和解しはしないかという懸念に加えて、ソ連が国共両党と共同して抗日戦線に加わってきはしないかという懸念があった。この悪夢は1936年末には単なる夢に止まらぬ現実性を帯び始めた。そのときまでの蒋介石は、日本の要求には少しだけ譲って全体としてはこれを上手く受け流しつつ、他方で共産党攻撃という比較的楽な途を選んできた。しかし、彼は中国の人民が望んでいるのは日本に対する共同行動であることに常に気づいていた。そして彼がそのような運動を積極的に指導すれば、自分自身と自分の党の人気が上がることになるという期待感ももっていた。
 <かくして、>日中関係は1936年の西安事件後新局面に入った<のである。>」(167〜169)

→ニッシュが、どうしてイギリスが想定敵国とされたかについて、説明を省いてしまっているのは、(気持ちは分からないでもないものの)困ったものですが、この点を除けば、ニッシュは、ここで、まことに的確に、当時の帝国陸軍、ひいては日本世論の心情を描写しています。
 すなわち、当時の日本人の大部分が、私の言葉で言えば、対赤露安全保障政策を人間(じんかん)主義的に推進していた、ということを・・。

(続く)