太田述正コラム#4616(2011.3.14)
<ニッシュ抄(その7)>(2011.6.4公開)

 「<1932年>5月、・・・イギリス人のリットン卿が団長となった・・・調査団は、<日本を訪れてその反国連的世論に接した後、>華中、華北、満州、朝鮮へと・・・現地調査を進め・・・8月、・・・報告書の作成に取り組み、9月4日、北京において・・・報告書<(Lytton Report)(注18)>に署名がなされた。」(128)

 (注18)同「報告書は「柳条湖事件における日本軍の侵略は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」とした。しかし、・・・日本の満州国における特殊権益を認め、・・・満洲には、中国の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する・・・<その>その大部分<が>日本人<たる>・・・外国人顧問の指導の下<に置かれるべきものとした。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%9B%A3
 なお、柳条湖事件(Mukden Incident)を起こしたのは日本軍であるとの認識を団員全員が抱いていたにもかかわらず、フランスの団員がその旨の記述をすることに反対したので、報告書には盛り込まれなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lytton_Report

→奇異な感じがするのは、この報告書のどこにも、日本の対赤露安全保障への言及がないことです。
 時の荒木陸相(後出)は、日本でリットン調査団と面談した(日本語ウィキペディア上掲)際、ソ連との漁業問題(後出)もこれあり、このことを公的な場で語ることを控えた可能性が高いけれども、だからこそ、調査団にオブザーバーとして終始同道した外交官の吉田伊三郎(日本語ウィキペディア上掲)が、非公式に団員達、とりわけ団長のリットンにこのことを吹き込んでいてしかるべきところ、恐らく彼は、それを怠ったのでしょう。
 その背景には、幣原外交のせいで、本来、赤露警戒感を共有していたはずの日英間で、信頼関係が失われてしまっていたことがあった、と思われるのです。(太田)

 リットン報告書は、<1932年>11月23日から28日まで国際連盟理事会の場で審議された。・・・
 <その>最中に、日本軍が熱河を侵攻し始めた・・・。満州国建国当初から、日本は「奉天省、吉林省、黒竜江省、熱河省、東省特別区、蒙古自治領の6省区」・・・を満州国に組み込む計画を立てていた。・・・
 またまた日本軍は、柳条湖事件類似の、中国人による日本兵舎の襲撃という「偽装工作」をやっておいてから、1933年1月3日に<熱河省の>城壁都市山海関を占領した。・・・2月22日に始まった<ところの、国民政府の大軍を相手とする>熱河作戦は短期間で<日本軍の勝利で>けりがついた。・・・
 このような背景の下、連盟総会は、2月24日、自ら作成した長文の報告書の中にリットン調査団報告書の主要な論点を取り入れた。<その採否の>投票結果は42対1(日本)となり、・・タイ<だけが>・・・棄権票<を>・・・投じた・・・。・・・松岡<洋右>は・・・政府の訓令に従って、代表団を率いて退場した。・・・ついに3月27日、斎藤内閣は、連盟を脱退するという・・・決定に踏み切った。<その脱退が効力を発生したのは2年後である。>
 満州事変は2年の長きにわたる戦闘を経て、塘沽停戦協定<(コラム#4008)>で終結した。・・・<満州事変の結果、>日本は・・・連盟に加盟していなかったアメリカとも敵対するようになった。・・・アメリカは上海事変の処理で連盟を助け、また、リットン調査団には有力な団員の一人として、アメリカ人[フランク・マッコイ]が加わっていた。」(130〜134)
 「日本の経済的立場もまた、日本の・・・反対と孤立をものとも<しない>・・・外交政策に影響を与えた。日本は世界恐慌に非常にうまく対応していた<からだ。>・・・
 1931年から彼が暗殺される1936年までの期間は、・・・高橋是清蔵相・・・の名にちなんで「高橋財政」<(コラム#4337)>の時代と呼ばれている・・・。彼の蔵相在職期間中に、全体としての予算は縮小したが、陸海の軍事予算はかなり増大し、軍事費が予算に占める割合は1931年度の31パーセントから1936年度の47%へと跳ね上がったのである。逆説的になるが、この軍事歳出は・・・世界恐慌からの日本的な脱出法として、日本経済と支出を再び刺激するという彼の目標達成に役立ったのである。」(134〜136)

→「全体としての予算<が>縮小」したとすれば、「経済」が「刺激」されることなどありえないので、ここはニッシュの勘違いでしょう。
 それはさておき、ざっくり申し上げれば、当時の日本では、世論の後押しを受けたところの、軍拡と軍事行動によって、日本経済は順調な成長を続け、日本の対赤露安全保障もより安泰なものになって行った、ということです。
 それはまた、私の言う日本型政治経済体制の確立と手を携えて進行したのです。
 しかし、日本型政治経済体制の中核的属性の一つである下克上は、経済面では機能するけれど、政治面、とりわけ軍事面では機能しないことから、満州事変でこそことなきを得たものの、その後、内蒙工作を失敗したり、1940年時点での対英のみ開戦を逸する、という大きな蹉跌を日本にもたらすことになるのです。(太田)

 「日本は、1939年9月の日満議定書における同盟条項によって、・・・同国の国防及び治安の維持に当たった。・・・こ・・・の任務に当たったのが、シベリア干渉以来、長年にわたってイデオロギー的にソ連を蛇蝎視してきた関東軍であった。1920年代中にコミンテルンが中国へ干渉するようになり、また、日本社会自体にも共産主義イデオロギーが浸透していたので、<その世論の間で>このような反ソ感情は強まっていた。日本の国防計画において、ロシアは30年にわたる仮想敵国であった。・・・しかし、歴代内閣のいずれもが留意しなければならなかったのは、人口増加に苦しむ日本にとって、ソ連の領海内で安定的な漁獲量を確保する必要があり、そのため常に政治的な利害と食料的な必要との間のバランスをとらねばならないことであった。
 この時期の陸軍は陸軍大臣であった荒木大将の大きな影響下にあった。荒木は対ソ予防戦争策<=(熱戦)(コラム#3774、4006)>を唱えていた皇道派に属する過激な思想の持ち主であった。皇道派は、ソ連が5カ年計画を完成した暁には、シベリアにさらに多くの金をつぎ込み、東アジアの兵力を増強するのは確実であると思っていた。・・・<実際、>1932年から1934年の間に、かなりの兵力の増強があったと見られているし、さらにはシベリア鉄道の複線化がなり、ソ連側に自信が増大したような雰囲気があった。」(140〜141)

→当時の日本の朝野をあげての対赤露警戒心が的確に描写されていますね。(太田)

 「日本は中国問題で国際連盟から脱退したが、それでもなお連盟の軍縮会議に自ら進んで出席し、ロンドン世界経済会議にも招待された。さらに、1935年まで連盟の分担金を払い続けた。日本の<国連>委任統治地域については曖昧な路線をとってこれらを保持し続け、毎年、連盟に報告書を提出した。」(150)

 「1935年6月、華北において新たな関東軍の政治活動が勃発した。蒋介石は華中、華南にある共産党の根拠地に対する掃討作戦に没頭していたので、華北は長い間手薄なまま放置されていた。彼は、自分の手で打ち負かすことができない日本を相手にするよりも、共産主義者を攻撃する方が安全、確実であるという結論に達していた。この掃共作戦によって、1934年、共産党は江西省の本拠地から退去し、延安に向かって長征を始めざるをえなくなり、その途上で多数の兵士を死なすことになったが、蒋の掃共作戦自体は限定的な成功しか収められなかった。・・・明らかにこのような背景をにらんでのことのように思われる<が、>・・・日本陸軍の戦略家たち・・・<は、>華北の分離運動を奨励し華北を国民党の影響下から切り離そうと考え・・・支那駐屯軍司令官梅津美次郎少将は、・・・華北で作戦を展開して北京北方に迫り、軍事委員会北平分会代理委員長の何応欽に北平・天津地域から国民党の兵力と勢力を撤退させることに同意させた。この梅津・何応欽協定によって華北に緩衝地帯に相当するものが設置された。その後しばらくして、今度は土肥原賢二少将が黄河北方のチャハル省から国民党勢力を引き上げる保障を得た<(コラム#4008)>。年末には、日本の強い影響下で冀察政務委員会が設立された<(コラム#4010)>。・・・この政策がどこまで<陸軍>中央のもので、どこまで出先の司令官の主導によるものか曖昧で、判別しがたいところがある。」(155〜156)

→これらが、対赤露安全保障の観点から、そしてまた、中国国民党が腐敗したファシスト政党であって容共分子を内に抱えているという認識に基づいて、遂行されたものであることを、日本政府は、あらゆる機会をとらえて米英等に訴えなければならなかったのに、主として外務省のせいでそれを怠ったこと、かつまた、そもそも、これらを上意下達で遂行されなければならなかったのに、これまた主として外務省のせいで陸海軍が外務省不信に陥っていたために下克上で遂行せざるを得なかったこと、が日本帝国の瓦解をもたらしたところの日本側の要因である、と私は考えているわけです。(太田)

 「日本は・・・どれほど多くのドイツ人専門家が中国軍の改革のために国民党を援助しているかについて、十分気づいていたが、その目的の一つは反共にあるとみなしていた。・・・日独両国は、安全保障上の考慮から、特にソ連に対して共有する不信感と恐怖感とから自然とお互いに接近していった。日本のジャーナリズムと世論の反ソ感情が第三帝国との協力強化の温床となったのである。
 対独関係改善の牽引車となったのは陸軍であった。大島浩陸軍大佐[1935年少将、1938年中将に昇進]は、1934年から38年までドイツ駐在大使館附陸軍武官を務めることになるが、彼は親独派で押し通した人物である。・・・彼はドイツ人女性と結婚し<ていた。>」(157)

→結局、外務省のせいで、英国と離間してしまっていたため、対赤露安全保障を全球的に追求するためには、日本は、ドイツと提携するしか選択肢がなくなってしまい、帝国陸軍が率先してそれに乗り出した、というわけです。(太田)

(続く)