太田述正コラム#4612(2011.3.12)
<ニッシュ抄(その5)>(2011.6.2公開)

 「<1930年>4月22日、・・・ロンドン海軍条約は調印された。・・・
 艦隊規模の決定権は海軍当局にのみ存し、浜口内閣の行為は権限を逸脱している。このように主張する海軍内の強硬派は、・・・野党の政友会内に反対論を煽り立てた。」(103)

→むしろ、政友会が民政党政権の足を引っ張るために統帥権干犯問題を利用し煽り立てた、ととらえるべきでしょう(コラム#4372)。挙国一致内閣になっていなかった弊害が現れた、ということです。(太田)

 「1929年7月、外相に復帰した直後に幣原が直面したのは、第一次満州危機[ともいわれる中ソ東支鉄道紛争]であった。張学良政府も、南京の国民政府が展開している民族主義的な政策に従って、中国人の満州への移民を奨励し、特にまた東支鉄道の全面的な管理権を掌握しようと試みた。そのころまで、同鉄道は共同管理経営を規定した1924年の中ソ協定に基づいて運営されていた。7月、中国はソ連人役員を罷免して中国人に代えると同時に、鉄道資産を差し押さえた。その後、鉄道事務所がコミンテルンの宣伝文書配布や張学良体制転覆活動に利用されているという口実の下に、中国側が同所の家宅捜索を行ったが、これは明らかにソ連の条約上の権利を侵す行為であった。ハルビンのソ連領事館も占拠され、ソ連人は中国の刑務所に入れられた。幣原は駐日ソ連大使と駐日中華公使に斡旋を申し出た。他方、アメリカは、・・・列国に、とりわけ日本に対して、国際的な和平努力に参加するように求めたが、幣原はこれを断った。・・・
 ソ連は・・・11月、・・・軍隊を越境させて満州西北部の満州里に送り込んだ。・・・中国側は、不意をつかれて完敗した。・・・アメリカは、1928年に結ばれたばかりのケロッグ=ブリアン条約の名の下で、ソ連に警告を与える共同覚え書きを出そうと考え、列国の支持を集めようとした。アメリカと違ってソ連を承認していた日本は、中ソ紛争においては厳正中立の立場を維持したいと考え、国際的な警告声明への参加は望んでいなかった。巻き込まれたくないという日本の気持ちは、[イギリスを含めて]ほとんどの国が共有するものであった。幣原自身は日本の満蒙権益の強固な擁護者ではあったが、ソ連との平和共存論者でもあった。・・・日本は、今回中国の企てが成功すれば、中国は調子に乗って南満州鉄道に対しても同様の行動に出てくるかもしれないと見ていた。以上のような理由から、日本はアメリカ発案の国際的な働きかけに対してはまったく興味を示すことなく、実質敵にはソ連を支持する行動をとったのである。・・・
 <しかし、>南満州鉄道<に関し、>・・・日本軍に直接軍事的に挑戦するのは不可能であることを、中国は百も承知していた。」(106〜107)

→幣原の3点セット・・米国事大主義(=米国以外の列強との非協調主義)と支那ナショナリズムへの迎合と利己的な経済的利益追求・・は、支那本体だけが対象であり、満蒙(満州及び内蒙古)はその対象外であった、ということが分かります。
 しかし、幣原のこのような満蒙政策は支離滅裂である、と言わざるをえません。
 日本が(朝鮮半島や)満蒙にこだわってきたのは、対赤露安全保障の観点からであること、かつ、ソ連はワシントン体制の構成員ではないことからその構成員間の国際協調の埒外の存在であることから、幣原は、ソ連が満州における自国の権益を武力でもって維持しようとする行為の防止を図るとともに、かかる行為を咎めるべきであったのです。
 そして、幣原は、せっかくソ連のかかる行為を米国が防止しようとしたり、非難しようとした機会をとらえて、米国事大主義者としての「本分」を発揮し、米国と積極的に協調行動をとるべきだったのです。
 ところが、幣原は、こんな時にソ連に対して宥和的姿勢をとってしまったわけであり、そんなことでは、米国に対し、日本が赤露を嫌悪し、警戒していて、日本の対満蒙政策も対支那本体政策も、すべては対ロシア安全保障の観点からであるとアッピールしつつ、爾後日本の対満蒙・対支那本体政策の足を引っ張るようなことがないように求めることができるわけがありません。(太田)

 「日貨排斥運動が激化し、日本人の生命が脅かされる事件が<何度も>起きた。・・・<駐華大使の>重光は交渉によって緊張を解消するようにという訓令を<幣原外相から>受けていたので、排日運動によって<支那在留日本人達は>深刻な打撃を被っていた。・・・<他方、>上海の日本人綿製品商人の要請を受けて、海軍は塩沢幸一海軍少将麾下の第一遣外艦隊を上海に派遣して、共同租界沖に碇泊させることにした。・・・塩沢司令官は陸戦隊のうち数部隊が日本人商人の援助にいくことを認めた。・・・この海軍の行為は、次の一ヶ月にわたって何度か繰り返されたが、これは<日本の>外交官には十分知らされもせず、また<その>承認も受けずに行われたので、海相と外相間に不協和音を引き起こす原因となったが、それは満州において陸相と外相間で起こる不一致に類似していた。ある意味では、<この>上海事変は満州事変に先行していたともいえよう。」(108〜109)

→帝国陸軍同様、海軍も、幣原率いる外務省に呆れ果て、支那在留日本人、ひいては日本の世論を踏まえた独自行動を下克上的にとるに至っていた、ということです。(太田)

 「陸軍大尉中村震太郎は、情報収集の使命を帯び身分を隠して満州の北部を旅行していたところ、中国の屯墾軍に捕らえられ、うやむやな状況下で殺害された<(注11)>。・・・
 このころ満州で次々と起こっていた事件とそれに対する中国側の対応の遅さを、内部向けに政治的に利用しただけでなく、もっと広く日本本国でも宣伝運動を繰り広げて、各市の上空からビラを撒くなどして満州出兵を呼びかけた。そしてついに9月18日、・・・関東軍・・・によって・・・満州事変が勃発したのである。」(109〜110)

 (注11)中村大尉事件又は中村大尉殺害事件。「1931年・・・6月27日、・・・中村震太郎(1897年-1931年)大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域)を密偵していた際、・・・パスポート・・・を提示したにもかかわらず、・・・張学良配下の・・・屯墾軍に拘束され、銃殺後に遺体を焼き棄てられた事件・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%A4%A7%E5%B0%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

→幣原率いる外務省の支援、協力が得られないため、帝国陸軍は、直接、日本の世論との対話を図りつつ、下克上的に世論の意向に沿った行動をとって行った、ということになります。(太田)

(続く)