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太田述正コラム#4610(2011.3.11)
<ニッシュ抄(その4)>(2011.6.1公開)

 「広東を本拠地とする国民党の軍隊、国民軍の北伐によって状況は一変した。国民軍は、1926年9月、揚子江中流の主要都市漢口の攻略に成功した。国民党指導部は軍隊の規律維持に苦しみ、外国人に対する暴行事件が起こった。このような事件が深刻な様相を呈するようになったのは、国民党の左派分子が漢口に権力基盤を築き上げ、これに対して200名の日本の陸戦隊員が護衛兵として上陸したときからであった。一月末までには上海の共同租界が国民軍によって攻撃を受けるかもしれないという取り沙汰がなされた。日本もこのような事態を予防するために他の列国と協力するよう求められた。このころまでには、加藤高明首相が死去し、首相は若槻礼次郎に代わっていたが、幣原は留任を求められ、外相職に留まっていた。1927年1月21日の議会演説において、幣原は彼の掲げる不干渉政策を繰り返した。上海で紡績工場を経営する日本人たちはこの幣原演説を非難し、他の列国との国際協力を唱えた。また、中国各地の領事館に配属されていた将校たちは、守備兵の補充を東京に督促した。
 <次いで南京事件が起こった。南京領事館の>荒木亀男海軍大尉が、3月30日、自殺を図った。彼は、領事たちから無抵抗主義を求められていたために、邦人に対する乱暴狼藉を目の当たりにしながら、保護責任を果たせなかったことを恥じたのであった。」(82〜83)
 「陸軍は最近の国民党の活動は共産主義者によって鼓舞され、指導されているとみていた。宇垣陸相は幣原外相の軟弱外交にあきれ返っており、4月7日、若槻首相にもっと積極的な中国政策を採って、中国における共産主義の拡大を阻止するよう訴えた。・・・
 幣原の考えと宇垣や陸軍の考えは、氷炭相容れない関係にあった。すなわち、宇垣は列強との協調を促していたのに対して、幣原は自国中心的な政策を日本単独で追求することを望んだ。・・・この文書が露わにしているように、陸軍はソ連と中国の共産主義を蛇蝎のごとく忌み嫌っており、列国との協調の下で赤化防止のための過激な手段に出ることも辞さないという決意を固めていた。・・・4月17日、意見不一致のまま内閣は崩壊した。・・・
 <要するに、>幣原・・・の内政不干渉主義派、実は、自己にもっとも適したやり方で日本の商業的利益を追求するために、他の列国とは距離を置いて一人わが道を行くといった意味をもつものであった。」(84〜85)

→露骨に言えば、日本の三菱等の財閥系大企業の支那での経済的利益の最大化を追求した、三菱の女婿、幣原は、支那に経済的権益を持つ英国等の列強との国際協調に背を向け、中国共産党や容共の中国国民党左派を中心とする支那のナショナリズムに迎合する「平和」外交に徹することで、英国はもとより、支那居留日本人庶民達、ひいては日本の世論の憤激を買った、ということです。
 それに比べ、荒木大尉に象徴されるように、帝国陸海軍は、支那居留日本人庶民達、ひいては日本の世論の意向に耳を傾けてその意を汲んだ行動をとり、かつまた、ここでは出てきませんが、累次申し上げているように、帝国陸軍は、国際協調、とりわけ英国との国際協調を追求したわけです。
 このように、外務省は反自由民主主義、反国際協調志向、陸海軍は自由民主主義志向、うち陸軍は国際協調志向であったのであり、戦後日本人の認識とは真逆が真実であった、ということになります。(太田)

 「田中義一は、・・・1927年4月20日、・・・政友会総裁として内閣を組織した。・・・
 彼は外相を兼任したが、もっぱら外務省を通して外交を行うというやり方は採らなかった。・・・
 山本・・・条太郎<(注8)>・・・は、・・・南満州鉄道の社長に任命されるが、<彼には>・・・特別に託された任務があった。張作霖との間で懸案を解決し、満州における鉄道増設権を認めさせるという任務であった。・・・このようなやり方が採られた一つの理由としては、軍人が全体的にもともと外務省を信用していなかったということがあった。・・・
 田中は<また、>5月27日、第一次山東出兵を行った。・・・田中は、イギリスからの支持が得られることを十分に承知した上で、今回の行動に踏み切ったのである。イギリスが是非とも日本に気づいてもらいたいと思っていたことは、中国の拝外運動が民族主義者を共産分子と結びつけており、後者が支配的地位を占めていて、中国が自己の力だけで共産分子に対処するのは難しくなっているという点であった。ゆえに、田中の行為は中国に関する国際協調の第一例目にあたり、ワシントン会議がもくろんだ成果の一つであった。」(85〜87)

 (注8)1867〜1936年。「病気のため共立学校を中退後、三井物産横浜支店に奉公。明治42年(1909年)、常務取締役。・・・1914・・・、シーメンス事件に連座して退社。その後は事業家として再出発し、多くの会社の社長・役員を務める。
 ・・・1920年・・・以来、立憲政友会から衆議院議員当選5回。幹事長等歴任。・・・
 ・・・1927年・・・から・・・1929年・・・まで南満洲鉄道株式会社総裁。大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」とも言われた・・・。茶人としても知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9D%A1%E5%A4%AA%E9%83%8E

→ですから、陸軍出身の田中義一は、外務省を軽蔑しきっていたのでしょう。彼は自ら外相を兼務し、外務省を噛ませない外交を展開するのです。(太田)

 「浜口雄幸<(注8)>内閣は1929年7月2日に成立した。憲政会を母体として結成された民政党の総裁であった浜口は、1924年から1926年まで加藤高明内閣の下で大蔵大臣を務めた経験がある。・・・1930年2月、民政党は・・・衆議院を解散して総選挙に打って出た。その結果、民政党は、政友会<に>・・・圧勝した。この民政党内閣は1931年12月まで存続することになる。外相に返り咲いた幣原喜重郎は中国問題を解決せんと意気込んでいた。・・・
 民政党にとって不運であったのは、世界恐慌が猛威を振るおうとしていたさなかに政権の座に就いたことであった。・・・1927年3月以降、・・・金融危機が連続して起こっ<てい>た<、という時代背景の下、>・・・民政党は、緊縮と軍縮という旧式の治療法でこの問題に対処しようとした。この方策には国内の経済活動を萎縮させる作用があった。たとえニューヨークの株式市場が崩壊していなくても、1930年、31年に日本経済は深刻な状態に陥っていたと思われる。民政党は選挙公約として旧平価での金本位制への復帰を掲げたので、この公約を果たさなければならないと感じていた。
 <その結果、農村部の不況と失業者の増加がもたらされた。結局、1931年9月に英国が金本位制から離脱した3ヶ月後に日本も離脱せざるをえなくなった。>それは井上<準之助>蔵相退陣後のことであった<が、当然、在任当時の>井上の政策は国民に不人気で<あったわけで、>・・・1932年2月9日、前蔵相<の井上>は暗殺されることになる<(注10)>。」(97〜98)

 (注8)1870〜1931年。東大法卒、大蔵省に入省、逓信次官、大蔵次官を歴任。「その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8
 (注9)1869〜1932年。東大法卒、日銀入行、同総裁、第2次山本内閣の蔵相を歴任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%BA%96%E4%B9%8B%E5%8A%A9
 (注10)浜口自身も狙撃され、その傷がもとで亡くなっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8 前掲

→民政党は、このような非常時に、金本位制への復帰なる選挙公約になどこだわっていてはいけなかった(コラム#4588)のです。金本位制に復帰するためには緊縮政策をとらなければならない、よって財政支出もカットしなければならない、ということは軍事費も減らさなければならない、だから軍事軽視の経済至上主義の幣原を外相に起用しなければならない、ということになり、結局、日本に人為的な深刻な不況・・ただし、マイナス成長になったわけではない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8 上掲
ことに注意・・が招来されてしまったばかりでなく、軍事力整備の足を引っ張ってしまったのです。
 かくして、官僚(軍事官僚を含む)主導の挙国一致内閣を望む気運が高まり、5.15事件を契機に、1932年5月、日本に挙国一致内閣が成立するに至る、ということになるのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
(太田)

(続く)

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