太田述正コラム#4600(2011.3.6)
<戦前の日本の外相(その6)>(2011.5.27公開)

7 石井菊次郎(1866〜1945年(空襲で死去、と考えられる)。外相:1915〜16年)

 「石井の著作はいくつか英語に翻訳されており、そのため、おそらくどの日本人外交官よりも、海外でその名を知られるところとなっている。・・・が、そこから、彼の人となりがはっきり浮かび上がってくるということはない。」(114〜115)

→書かないよりは書いた方が良いに決まっており、数はそれほど多くないにしても、現在でも、日本の外交官で著書を残す人はいます。しかし、彼らの著書が日本に影響を与えることはまずなく、いわんや外国に影響を与えたことなど皆無ではないでしょうか。
 何度も申し上げているように、法学部時代に学問的な論文を書く訓練を受けていないことが大きなハンデになっている、と思うのです。(太田)

 「1916年1月、皇帝ニコライ2世の代理として、伯父のゲオルギー・ミハイロビッチ大公が<日本を>・・・訪問したが、・・・代表団・・・は、日本からの・・・軍需・・・物資供給拡大を目指して精力的に会談を行った。・・・
 2月14日、議事堂において緊急閣議が開かれ、対露交渉に入ることが決定された。日本側提案の主旨は、・・・日本は、ロシアに武器を供給する・・・、そして見返りに、満蒙におけるロシアの譲歩、とりわけハルピン以東の東支鉄道の日本への売却を求める。・・・
 条約[第4回日露協約]は最終的に、7月3日、ペトログラードにおいて調印された。協定の公開部分は、極東における領土的権利及び特殊権益の維持に向けて協力し合う、とした簡単な文書に過ぎない。付属の秘密協定が、了解の中心部分をなしており、そこでは、一方が第三国との戦争状態に入った場合、他方は、要請に基づき、支援を行う。また、双方は、事前協議によらずして単独講和を行わない、とされていた。更に、長春・ハルピン間の鉄道売却問題を、地域委員会を設けて処理する旨、合意された。」(116〜118)
 「<この>日露同盟は、・・・山県と長州閥(寺内もこの中に含まれる)によって、より正しい判断に基づく外務省の反対を押し切って進められた。外務省内の加藤や後に石井が属したグループは、日本の安全保障は地理的に離れたイギリスとの同盟で十分と見ていたが、どの内閣にとっても、元老の主張をくつがえすことは実際不可能であり、大隈内閣も例外ではなかった。・・・不思議なのは、山県ほど鋭敏で、世故にも長けた慎重な人物が、なぜ、ロシアのように不安定な国(1916年1月、すでにペトログラードではストライキが起こっていた)との提携を主張したのかという点である。<この>日露同盟は、地殻変動的な革命の波に瞬く間に飲み込まれ、日本に何の利益ももたらさなかった。・・・
 石井は、おそらく、同盟・・・締結に熱心ではなかったし、問題性を知りながら意に反して交渉にあたらされたと思われる。石井には、加藤のような強い個性も権力基盤となる政党の背景もなかった。」(119)

→ニッシュが、ここで正しくも、組織による外交ではないところの、元老による外交の危険性を指摘しています。日英同盟の基盤の上での日露「同盟」であったとはいえ、価値観を共有しない「同盟」など、よほどのことがない限り結ぶべきではないのです。いわんや、明治維新以前からの仇敵たるロシアとの「同盟」においてをや。もっとも、幸か不幸か、この「同盟」は、ロシア革命の勃発によって、瞬時にして瓦解してしまうわけです。
 なお、石井についても、内外世論から超然としていたという感がありますが、これは加藤がいかに例外的な存在であったかを示すものです。(太田)

 「1917年4月、アメリカが対独参戦し、日米は期せずして同盟国となる。中国における戦時中の日本の行動にワシントン<は>反対の態度を明らかにしていた・・・。もしワシントンが、自国の戦時生産のために必要という理由で、鋼鉄・銑鉄等々の輸出を断ち切れば、日本の戦時産業化の弱点がさらけ出されるに至ろう。更に、アメリカが軍備拡充計画に乗り出し、戦争を連合国側の有利に導けば、世界は来るべき講和会議の場で、疲弊した欧州諸国よりもアメリカの言動に一層耳を傾けがちになろう。」(123)
 「<そこで、>1917年6月に、石井を団長とするワシントンへの戦時使節団が編成された・・・。・・・
 日本は、中国における立場に関し、正に、イギリス、フランス、ロシアの是認を得た、と思っていたが、実際その通りだった。そして今や、戦時使節派遣の機を利用して、アメリカの容認を得ようと努めた<わけだ>。・・・
 <そして、>11月2日<に米国務長官のランシング(注6)との間で、>」交換公文<(石井・ランシング協定)(コラム#4500、4518、4528)>・・・<が>取り交わされた・・・。」(125、126〜127)
 「<もっとも、米国務長官の>ランシングに関する限り、1915年のブライアン・ノート<(注7)>で既に認めた以上のものは手放していない、との思いがあった。・・・
 アメリカ側の見方では、・・・<そもそも>これは・・・アメリカ海軍が大西洋に展開している間、東アジアの現状維持を図ろうとしたものに過ぎなかった<のだ>。」(126)

 (注6)ランシング(Robert Lansing。1864〜1928年)はブライアン(下掲)の後任の米国務長官。1920年、独断専行により、ウィルソン大統領に解任される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
 (注7)ブライアン(William Jennings Bryan。1860〜1925年)は、米大統領選挙における民主党の大統領候補者に3回選出された、当時の有力政治家。1913年にウッドロー・ウィルソン大統領により国務長官に任命されたが、第一次世界大戦中の1915年に、ドイツ潜水艦による客船ルシタニア号撃沈の際の対独方針について、大統領と見解を異にしたため辞任している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3
 ブライアン・ノートは、日本が支那に対して権益を拡大しようとすることへの牽制。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8D%94%E5%AE%9A

→同じ側に立って第一次世界大戦に参戦していた同士であるとは思えないような緊張関係に日米両国はあったわけです。(太田)

 「1918年1月、駐米大使の椅子が空席になった際、政府は、前年の大きな功績に鑑み、石井を後任に任命した。・・・4月末、石井がワシントンに信任状を差し出したとき、日米関係は沈滞した憂うべき状態にあった。日本はボルシェビズムの拡大を阻止すべくシベリアへの大軍派遣を期しているのでは、と疑うランシングとウィルソンに対し、石井は、それが杞憂である旨を説いた。ワシントンで表立った反対が広がらずに済み、日米両国軍隊のシベリア派遣を決めた口頭了解の成立へと至ったのは、石井の才覚と東京の指導層の慎重さによるところが大きかった。」(126〜127)
 「<しかし、>石井は、・・・ワシントンにあって、終始心中穏やかでなかった。アメリカ側は、日本に敵対的であり、新聞に、戦争初期に醸成された不信間を捨て去る気配は見えなかった。・・・関係を悪化させた要因は中国問題であり、事態を破局寸前までもっていったのは、阪谷事件であった。1918年夏以来、日本政府は、阪谷芳郎男爵(1863年〜1941年)を日本人としては最初の財政顧問として中国に送り込むことを目論んでいた。阪谷は、蔵相経験(1906年〜08年)もあり、1917年、パリで開かれた連合国経済会議に日本代表として出席するなど、群を抜く適任者と言えた。加えて、彼には、海外に多くの友人があった。・・・<しかし、>アメリカ側は、事前に同意を与えた覚えなど一切ないと否定し、さらに促されると、対中国国際借款団の刷新に向けた1919年の提案によって、状況は一変しており、借款団提案がまとまるまで、日本は、中国への財政顧問派遣を行うべきでない、との声明を発表した。・・・石井は、その春、阪谷との「親しい関係」に照らし、・・・<駐米大使を>辞任するに至る。・・・石井は、7月、日本に戻った。」(133〜134)

→米国は、ロシアの赤露への変貌に対する危機感が希薄であったことから、シベリア出兵に及び腰であっただけでなく、その、名実ともに世界覇権国たらんとする野望と人種主義的帝国主義から、東アジアの地域的覇権国たる日本による支那安定化努力を執拗に妨害し続けた、ということです。(太田)

 石井の前半生は、単純であり、彼は、東大法学部を卒業こそしているけれど、卒後、直接外務省に入省した純粋培養に近い人間です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E8%8F%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
 そんな石井は、そつなく外交業務をこなす能吏ではあっても、日米関係の悪化に危機意識を持って、積極的に、米国の世論に対して広報宣伝活動を展開したり、日本の世論に向けて啓発活動を行ったり、といったことをやった様子はうかがえません。
 確かに、彼は駐米大使を自ら辞すことで、それなりのインパクトを日米双方に与えることはできたでしょう。
 (米国側に与えたインパクトが134で書かれています。)
 しかし、帰国してから、石井は、「思考が右方向へ傾斜していく様子を窺わせ・・・<単なる>自国の弁護人となった。・・・強い不安の漂う雰囲気と、引退を控えた官吏を襲う貧困の予感は、しばしば人をこうした方向に駆り立てる」(135)とニッシュに揶揄されるようなことでは、石井は何もやらなかったに等しいと言わざるをえません。
 結局、外務省は、日米関係の改善に向けて、省を挙げて取り組むべきところ、それを怠り、その結果、日本は、第二次世界大戦で米国に酷い目に遭わされることになるのです。

(続く)