太田述正コラム#4598(2011.3.5)
<戦前の日本の外相(その5)>(2011.5.26公開)

6 加藤高明(1860〜1926年。外相:1900〜01年、1906年、1913年、1914〜15年。首相:1924〜26年)

 「外交官時代、青木や林董など同時代人の例に漏れず、加藤は、新聞の「操縦」に意を用いた。・・・時に無署名、時に変名を用い、ある政策を主張した論説を寄せることも、そこには含まれる。国内紙に限らず、必要に応じて、海外紙もその対象とされた。」(90)

→加藤は、民間企業幹部出身であり、最初に外相になった後には新聞社の社長も務めており、マーケティング感覚が身についていた、ということでしょう。外交官はこうじゃなくっちゃいけません。(太田)

 「ジョーゼフ・チェンバレンとの1898年の会談においても、また外相としての1901年の行動を通じても、彼は、自ら・・・イギリスとの反ロシア協定<たる>・・・<日英>同盟の生みの親を以て任じていた。」(90、91)

→うまく行った話の生みの親自称者は多数出現するのが世のならいですが、恐らく日英同盟に関しては、そのとおりなのでしょう。(太田)

 「1890年以来、歴代の外相は(大隈を唯一の例外として)みな職業外交官の出であ<ったが、>・・・桂太郎内閣の外相就任のため1913年にロンドンから戻った際、加藤は、桂が新たに組織した<政党である>同志会に参列した。・・・ここにおいて、加藤は、同じく野心的な元外交官原敬の後に続いたのである。<同志会の>総裁就任受諾は、加藤にとって大きな賭であった。・・・1914年4月、組閣を命ぜられた大隈は、同志会に協力を求めた。加藤は、条件として、外務大臣のポストを要求した。それが容れられたことで、外務省は背後に政党の威光を有することとなり、おそらくそれ以前のどの外相期よりも、政策決定に影響力をもったといえる。」(91)

→世論対策の域を超えて、加藤は、自らが世論の一画を担ったわけであり、自由民主主義的国家においては、政治任命職である外相は、本来、当然、そうあってしかるべきところです。(太田)

 「この時期、外務省はまだ発展途上の機関であったことに注意したい。スタッフは比較的小規模であり、1923年の関東大震災で焼失するまで、小さな二階建ての建物が仕事場であった。業務の進め方も、いまだ確立した規定に拠らず個人の裁量に委ねられる部分が大きかった。」(92)
 「元老による介入--あるいはコントロール--は、こうした状況下に行われた。それは、外務省の速やかな発展を妨げた。」(92)

→加藤の頃までは、日本は組織による外交ではなく、個人による外交を展開していた、ということになります。(太田)

 「加藤<は>・・・外交問題に対する元老や軍閥の介入に立ち向かった。1900年に入閣を求められたとき、加藤はいくつかの条件付きで応諾している。これらの条件は容れられたのだが、その中には、外相交代の度に、外務省の幹部職員を入れ代えないこと、各国外交当局との種々のやりとりは、加藤に集中さるべきこと、等が含まれている。・・・加藤は、さらに一歩を進め、慣行となっていた元老への外交文書回覧を差し止めた。そのことで、元老<・・軍閥の代表でもある(太田)・・>の不興を買う・・・。」(93)

→日本は大統領制ではないのですから、米国のような猟官制度はなじまないし、組織による外交を展開すべきなので、「慣行」によって特定の個人群が外交に容喙し続けるようなことも好ましくないことは、言うまでもありません。(太田)

 「この他に、加藤は、外務省自律に対する別の脅威・・・軍部の介入・・・にも立ち向かった。・・・関東総督府<(注4)>は、<満州における>政策決定過程から外務省を排除せんとする露骨な試みであった。状況を如何ともし難いと見た加藤は、1906年に辞表を提出した。・・・後を襲った林も、領事を通じた正常のシステムへの挑戦であるとして、関東総督府と闘った。・・・結局<外務省が勝利した。(注5)>・・・この立場はその後1914年まで概ね安泰であり続け、きれいに覆されるのは、ようやく1931年の満州事変に至ってであった。」(93〜94)

 (注4)「日露戦争後の1905年、遼陽に設置された関東総督府が翌1906年、旅順に移転・改組され関東都督府になった。関東州の統治のほか、南満州鉄道株式会社の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。1919年、関東軍と関東庁に分かれるまで続いた。長官の都督は陸軍大将・中将から任命された。都督は「都督府令」を発し、禁錮1年以下又は罰金200円以下の罰則を科すことができた。・・・都督は・・・関東州駐屯軍司令官も兼ね<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%83%BD%E7%9D%A3%E5%BA%9C
 (注5)関東都督府が外務大臣の監督下に置かれた(ウィキペディア上掲)ことを指すものと思われる。

→満州事変は、下克上によって出先の軍が動かされた、という病理現象であったところ、関係者がきちんと処罰されなかったことは問題ですが、より根本的な問題は、外務省が、加藤が、マスコミや政党を利用して行ったような世論啓発と民意のくみ上げを怠ったことから、満州事変を国策として遂行できなかった点にあります。(太田)

 「1915年・・・1月18日<の>・・・21カ条要求<(コラム#713)>・・<で、年央に至って、>日本は望むところを手にいれたが、その声望は、中国において、また世界一般において、損なわれた。・・・<こ>の一件全体を振り返<ると>、・・・加藤は、自身、欲を出しすぎ、策を弄しすぎた。あるいは交渉の中で下僚のコントロールに失敗した。」(104、108〜109)

→ニッシュはそう言っていますが、国内世論、支那世論、そして欧米諸国等に配慮しなければならない多元方程式を解くような外交案件であったことを考えれば、加藤はよくやったと言えるのではないでしょうか。(太田)

 「<外交からの元老はずしに怒った>山県は、断じて加藤を首相にしないと公言したが、実際、1922年の山県の死に至るまで、加藤及び同志会は政権から遠ざけられることになる。他の元老、松方と西園寺も、加藤を嫌い、21カ条の悪評がまとわりつく加藤の再登場によって、日本のイメージが落ちることを恐れた。が、加藤は政党党首の地位を守ることに成功し、ついに表舞台から退くことはなかった。そして更に、1924年、64歳で護憲三派内閣を率いて首相に就任し、年来の野望を遂げた。改革志向の強い首相として、加藤は、その経歴が黄昏を迎えた時期に、かなりの成功を収めた。」(111)

 なお、加藤の前半生は次の通りです。

 「尾張藩の下級藩士・・・の次男として生まれた。・・・東京大学法学部を・・・卒業・・・。 その後三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎・・・の長女・・・と結婚・・・。・・・
 ・・・1887年・・・より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。・・・1900年・・・には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E

→加藤の、外交官になるまでの経歴といい、なってからの経歴といい、外相を務める人物として、理想的なキャリアパスに近い、と私は思います。(太田)

(続く)