太田述正コラム#4596(2011.3.4)
<戦前の日本の外相(その4)>(2011.5.25公開)

5 小村寿太郎(1855〜1911。外相:1901〜06年、1908〜11年)

 「1901年9月21日、小村は、桂内閣の外相として初入閣する。・・・
 小村が外相となる以前に行われた最も重要な改革は、外交官・領事官任用試験制度の導入であった。起案者は原敬で、原は陸奥外相の下で[第二次伊藤内閣の]通商局長を経て、外務次官を務め、後には・・・首相(1918年〜21年)となった人物である。・・・それまで、例えば加藤高明、林権助、伊集院彦吉といった外交官は、洋行の経験や外国との接触の深さを当時の政府に重宝がられて、入省した人々であったが、これ以後は、東京帝国大学が、外交官の供給源となる。新しく、実習制度も設けられ、一部は霞ヶ関で、一部は在外公館において実施された。」(63、64〜65)

→東大での教育・・しかも何度もくり返すが東大中退がもてはやされた・・も研修も、日本の外交官の質の向上どころか、劣化をもたらしたことを我々は知っています。
 東大、とりわけ東大法学部教育の問題点が、論文を書かなくても卒業できる点にあることは以前指摘したところですが、外務省に入ってからの研修の問題点を明らかにするのは、今後の課題にしたいと思います。(太田)

 「彼らが、他国の外務省に見られるように、どの程度積極的に、覚書や政策方針案作成に力を入れたかは、判断の難しいところである。」(67)

→東大法学部で論文を書かせることがなかったことが役所に入ってからも尾を引いていたのではないか、というのが私の仮説です。
 よって、上記問題点は、戦前戦後を問わず、日本のキャリア官僚全体に通じるものであると考えられるところ、外務省において、その弊害が際だって出る、というのが私のもう一つの仮説です。
 戦前、英外務省で、大使にすら、任期が終わった時に必ず回想覚書を書かせたこと(典拠省略)とは対照的です。(太田)

 「ロシアが、以前にも増して活発に東アジアへの関与を深め、シベリア鉄道を建設し、さらには日清戦争後、朝鮮での日露競合状態が進むという状況になって以来、ロシアに対して怨恨を抱かぬ日本人、友好精神に満ちた日本人などほとんどいなかった。・・・
 小村が<初めて>外相の座に就いたとき、重大なものでないにせよ、意見の対立が存在した。伊藤を中心とするグループは、ロシアが朝鮮における日本の優越的地位を認めるかわりに、日本は満州におけるロシアの行動の自由を認めるという行き方が、日本の国益にかなうと考えていた。いわゆる「満韓交換論」である。他方、桂・小村グループとも言うべき人びとがおり、彼らの見るところでは、満州におけるロシアの存在は、何としても朝鮮に対する脅威であり、たとえロシアがいかなる言質を与えようとも、事情は変わらないのであった。また、満州は日本の安全保障にとって重要度の低い地ではなく、日本としては、おそらく長期的には、ロシアを満州から駆逐する以外ない、とされた。この目的を達するためには、利益を共有する列強との協調体制が必要であり、明らかに、手を組むべき相手の一つはイギリスであった。これら二派とは別に、当時再編計画の完成を経て最も充実した状態にあった日本の軍事力を用い、ロシアの鉄道システムが中国の心臓部まで及ぶことを阻止しようと考える勢力も、日本国内にあった。」(67〜69)

→明治維新以来の日本の安全保障政策は、ほぼ一貫して、日本にとっての最大の仮想敵国ロシアにどう対処するかがその中心であった、ということを、とにもかくにも、理解しましょう。(太田)

 「<このロシアを日本が打ち負かした日露戦争後、>太平洋上に浮かぶ最大の暗雲は、アメリカが抱く敵意であった。移民問題、海軍競争の進展(その現実、あるいは疑惑)、そして日本の大陸拡張に対する反対などを通じて、アメリカの出方は大いに関心を集めた。・・・当時、日本政府は、アメリカの批判と国内膨張主義者の宣伝の板挟みとなりつつ、1907<〜1908>年の紳士協約<(日米紳士協定)(注3)>締結で何とかしのごうと試みたものの、米側から、すぐにこの協定では不十分だとの通告がきた。1908年8月、・・・<再び>外相と<なって>問題を引き継いだ小村は、内閣をより妥協的な方向に導き、その結果、11月30日、高平・ルート協定<(コラム#249、263、3253、3754、4464、4492、4494)>が結ばれるに至る。これは、太平洋と中国の現状維持を認め合った協定である。」(82〜83)

 (注3)「1908年、林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。この協定により旅券発行が停止されたのは主として労働にのみ従事する渡航者であり、引き続き渡航が可能だったのは一般観光客、学生および米国既在留者の家族であった。この紳士協定による自主規制の結果として以後10年ほど日本人移民の純増数(新規渡米者−帰国者)はほぼ横ばいに転じる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95

 「1905年、・・・アメリカの資本家エドワード・H・ハリマンが訪日中にもちだした、南満州鉄道(東支鉄道の一部)の日本からの買収計画が、元老、とくに井上馨と首相桂に強い印象を与えた。計画が実現すれば、日米共同管理の下、鉄道一帯の復旧が出来ようし、予想し得るロシアのあらゆる復讐戦の企図に対する有効な資産ともなし得よう。これは、<日露戦争によって金欠病に陥っていた日本にとって、>逸すべからざる機会と思われた。が、<講和内容に対する世論の反発の下、ポーツマス和平交渉から>まさに甚だ面白からぬ気分で帰国した小村が、暫定合意[桂・ハリマン協定]を覆すことに成功した。ポーツマス講和で得た日本にとっての主要な利権を放棄することになろうし、日本が自ら調達し得る資金では鉄道開発が出来ないと信じるのは、余りにも悲観的すぎる、これが小村の主張であった。この挿話が指し示すところは、大陸における日本の将来の役割に関して真の認識を有し、日本の権利および独占的利権の拡張を図る決意を有していたのは、桂たちではなく、むしろ小村であった、という事実である。」(83)

→この時小村がやったことを批判するむきがあります。岡崎久彦と藤岡信勝がそうです。http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/161019.htm
 しかし、これは、その後日米戦争が起こり、日本が敗戦の憂き目を見たことを踏まえた後付的批判です。そもそも、仮にハリマンの提案を受け入れていたとしても、満州、ひいては支那大陸において、日本が人種主義的帝国主義の米国と日米協調態勢を維持し続けることができた、とは私には到底思えません。(太田)

 小村の前半生は、ニッシュ自身に語らせましょう。↓

 「小村は、九州の小藩飫肥藩の武家の出で、貢進生として、大学南校(後の東京帝大)で学んだ後、政府の派遣留学生としてハーバード・ロー・スクールに進み、5年間(1875年〜80年)をアメリカで過ごした。1884年に、外務省入省後、局長になったとはいえ、翻訳局という余り日の当たらないセクションに約10年いたが、1893年、陸奥によって抜擢を受け・・・参事官として北京へ配属され・・・<次いで>臨時代理公使<になった。>」(62)

→東大卒とはいえ、小村の長期留学経験は、彼が純粋培養人間では全くなかったことを示しています。(太田)

 「陸奥<とは違って、>小村は、何の著述も文書類も残していない。これは、彼の性格の現れである。小村は真面目で、寡黙であった。わざとらしい丁重さで一般の気を引くことを拒んだ。官僚として、小村は人気を特に必要としなかったし、また自国民に人気を博すことを避けた。ポーツマスでもどこでも、外国の新聞との関係づくりにいそしむこともなかった。おそらく知らぬ間に、小村は傲岸不遜との印象を与えていた。が、これは単に、彼の内気さのなせるわざであったろう。ハーバード・ロー・スクールに通い、アメリカとの関係が深かったにも拘らず、小村は、イギリスおよびイギリスの諸制度に親近感を覚えていたと言われる。最後の病床にあって彼が読み、1911年11月26日の死に際して、枕元に置かれていた二冊の本は、テニソンと『オックスフォード・イギリス詩集』であった。これらは、小村と共に、棺に納められた。」(86)

→上で記したことからして、何の文書類も残さなかった人物が外務次官、外相になる、というのは決して誉められたことではありません。
 また、小村には、ぜひアングロサクソン論(イギリス論)の著述を残して欲しかったと思うのは私だけではないでしょう。(太田)

(続く)