太田述正コラム#4592(2011.3.2)
<戦前の日本の外相(その2)>(2011.5.23公開)

3 陸奥宗光(1844〜97年。外相:1892〜96年)

 「1889年に公布され、翌年の国会の開設とともに実施された欽定憲法の第13条によって、和戦の決定権と条約締結権は天皇の大権に属す、ということ<が>確定<され>た。かくして、統帥権同様外交権も、天皇の大権とされ、議会の統制外に置かれることになった。外交問題に関する議会の決議は、天皇に対する請願の形式をとらねばならず、政府に対する拘束力はなかった。外務大臣が議会に対して陳述することがあっても、それは義務からではなくて、恩恵的に行われたのである。だから、外務大臣は、議員の質問に答える必要もなかった。」(27)

→余り論じられないけれど、覚えておくべき点ですね。(太田)

 「<駐米公使であった>陸奥<は>・・・続いて<駐>メキシコ・・・公使兼任も命じられ・・・彼の手によって、<1888年11月30日、>条約改正史上突破口を開いた<平等条約たる>日墨<修好通商>条約が調印されることになるのである。」(25)
 「<陸奥外相による>イギリス<との条約改正の>・・・正式交渉は1894年4月から徐々に進んで行った。・・・少々足踏みした後、遂にイギリスは改正に応じた。かくして、条約は、7月16日、調印の運びとなった。・・・調印よりまる4年たった後ならいつでも治外法権を終わらせることができる<等>と定めた・・・。(注2)
 <この日英修好通商条約を改正したところの>日英通商航海条約は、条約改正問題を解決する上で極めて重要な一歩であった。・・・他の列国は、開港場に大きな商人社会をもっているイギリスが、まさに治外法権を手放そうとしていることを知って、自分たちも合意に漕ぎつけようという気になった。日英間の条約の改正は、長い間何度も続けて失敗した後であっただけに、陸奥と<元外相たる駐英公使の>青木<周蔵>にとっては難事業の成就と言えた。」(32〜33)

 (注2)「ロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢<が>軟化を示していた」ことが背景にある。これ「は後の日英同盟への布石となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3

「1885年、ロシアがポート・レザノフ(元山)を奪い取ろうとしたとき、イギリス海軍は、極東艦隊をポート・ハミルトン(巨文島)に派遣して、何の実りもないまま、1887年まで同島を占領したのである。イギリスがこのような行動をとった理由は、朝鮮に具体的な利益があったからではなくて、イギリスのアジア政策の一環としての反露政策の故であった。アメリカは、朝鮮と条約を結んだ(1882年)最初の非東洋国家であり、イギリスとは異なる立場にあった。朝鮮王国は、条約締結後、アメリカにとって重要なキリスト教宣教の場となった。外交官同様宣教師たちも、ロシアの影響力も日本の影響力も歓迎していなかった。・・・
 日本人・・・は、日本の安全保障要因として、朝鮮に関心を払った。陸奥は、もし他国が朝鮮半島を支配するようなことがあれば、日本の安全は危殆に瀕するので、日本はかかる自体を容認できないと書いている・・・。さしあたって「他国」とは中国であった。」(33〜34)

→ユーラシア大陸全般において、厳しくロシアと対峙してきた英国と、ユーラシア大陸東北部においてロシアと対峙し始めていた日本の両国は、生来的同盟関係にあったのに対し、ロシアとの対峙を経験したことのない米国は、キリスト教が普及しない日本に対しては、キリスト教がより普及しやすかった支那や朝鮮半島に比べて、人種主義的反感をより抱いていた、ということです。(太田)

 「<陸奥の>蹇々録・・・は、日本は<1894〜95年の日清戦争で清国に>戦争で勝ったが、伊藤と陸奥は講和で負けたのだという非難への答えとして書かれている。・・・<彼は、>当時の日本の世論をクリミア戦争前のイギリスの拝外主義的な世論にたとえた・・・。
 陸奥は、当時は厳しく批判されたけれども、今から見ると、日本で最も偉大な外務大臣の一人であり、実際、日本外交の生みの親であると言ってもよい。平和時には、条約改正で、彼は巧みさと抜け目無さを発揮した。日清戦争時には、重圧下で冷静さと客観性を示した、三国干渉の危機には、列強の合同攻撃の脅威という、日本の外相には全く新しい状況に対応しなければならなかった。・・・陸奥は・・・首相の伊藤博文<や>・・・陸軍を統御していた・・・山県有朋・・・の単なる下僕ではなくて、対等の立場に立つ、非常に独立した精神をもった人物であったという感じがする。・・・1895年4月の<三国干渉の>危機に際して、彼らは、わざわざ<肺結核を患い、療養中であった>舞子の陸奥を訪れて、その意見を求めたのである。」(42)
 「陸奥は藩閥の出ではなかった。・・・彼の立身出世は、才幹によるもので、縁故関係によるものではなかった。これは、明治の中頃には稀なことであった。・・・<また、>陸奥(それに、後の小村)は、現実主義・・・リアリズム・・・レアルポリティーク・・・のかなり忠実な実践者であったと言える。」(42〜43)

→ニッシュは陸奥を高く評価していますが、私も同感です。
 陸奥の前半生を振り返ってみましょう。

 「陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫である。・・・紀州藩士<の>・・・国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。・・・
 1858年・・・、江戸に出て<儒学者の>安井息軒<(1799〜1876年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92
)>に師事・・・その後は<同じく儒学者の>水本成美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(1869%E5%B9%B4) (太田)
に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
 1863年・・・、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、・・・1867年・・・には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わる・・・。
 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
 明治維新後は外国事務局御用係(1868年)、兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞した。・・・<その後、>大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。
 ・・・1877年・・・の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、・・・禁錮5年の刑を受け、投獄された。・・・
 1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。・・・1884年・・・にロンドンに到着した陸奥は、・・・猛勉強した。・・・内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されているのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収した・・・。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ。
 ・・・1886年・・・2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89

 つまり、陸奥は、儒学と軍事学(Military Science)を学び、社会変革家として何度も危ない橋をわたり、かなり年配になってから英国と墺国への留学し、英国に心酔してベンサムの『道徳および立法の諸原理』の翻訳を上梓し(ウィキペディア上掲)、最終的に練達の外交官となった、ということでしょう。

(続く)