太田述正コラム#4582(2011.2.25)
<ジョージ・サンソムの過ち(その1)>(2011.5.18公開)

1 始めに

 まだ、XXXXさん提供の史料の四分の一〜三分の一しか「消化」しておらず、前途遠き感が否めませんが、細谷千博(ほそやちひろ。1920年〜)『日本外交の座標』(中公叢書。中央公論社 1979)に収録されている二つの論考、一つは1973年に書かれたらしい「クレーギーと太平洋戦争--駐日英大使の抵抗的立場」、もう一つは1975年に書かれた「ジョージ・サンソムと敗戦日本--一≪知日家≫外交官の軌跡」(もともとは『中央公論』1975年9月号に掲載されたもの)、という二つの論考のコピーをクリップで留めた綴りを「発見」し、この二つの論考をもとに、もっぱら、ジョージ・サンソムについて、ご紹介することにしました。
 なお、この二つの論考のどちらにも典拠が記されていませんが、細谷の経歴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%B0%B7%E5%8D%83%E5%8D%9A
からして、典拠なしでも、その記述は信頼できると思います。

2 「クレーギーと太平洋戦争--駐日英大使の抵抗的立場」

 コラム#3794で触れたところの、ドナルド・ワットがクレイギーの報告書(43年2月4日)を紹介した論考は、「1972年7月15日の『デイリー・テレグラフ』・・・<に>寄稿<され>た」(114)ものであることが分かりました。
 どうしてこのタイミングで寄稿されたかですが、「クレーギー大使は、戦争が終わって間もない時期に、在日大使時代の経験をつづった回想録を『日本人の仮面の内にあるもの』と名づけて世に送ったが、その中でも彼は右の報告書に一言半句もふれることなく、そこで展開された論点についても屈折した表現でしか述べるところがなかった。」(115)(注1)のであり、「かくてクレーギー報告書は、イギリスの公文書館(Public Record Office)の中でその存在を世に知られることなくほこりをかぶっていたが、60年代の後半イギリス政府が政府文書公開の30年ルールに踏み切り、さらに1971年初め戦時中の文書の一括公開の措置をとったことで、この・・・報告書が歴史家の目にふれることになった・・・。」(115)からだというのです。

 (注1)XXXXさん提供の、クレイギー回想録 'Behind The Japanese Mask' を途中(PP36)まで読んで止めた私の判断(コラム#4302)は、やはり正しかったようだ。

 細谷は、まだこの報告書を、自身、読んでいなかったからでしょうか、私が指摘したところの、「クレイギー自身、日本に「穏健派」と「急進派」が存在しているとしても、両者は目的を同じくしていてその目的を達成しようとする手法が違うだけであることから、この両者を区別することなどナンセンスであると思いつつ(コラム#3960)、英外務省中枢がこの区別を信じ込んでいることから、便宜上、このような区別を踏まえたかのような電報を本国に打っていたと考えられる」(コラム#4392)ことを認識していません。
 いずれにせよ、「<クレーギーは>・・・日本の政策決定システムがトップに決定権限が集中するという「独裁型」ではなく、決定権限はシステム内部に拡散して、複数のグループや派閥間の合意なしには重大問題についての決定に日本政府は容易に達しえぬこと、そしてこのような合意を生みだすのは往々にして「外圧」の作用であるとの鋭い洞察に立って<いた。>」(117)は、恐らくクレイギーのホンネであって、いかにもクレイギーらしい的確な観察であると言うべきでしょう。

3 「ジョージ・サンソムと敗戦日本--一≪知日家≫外交官の軌跡」

 ジョージ・サンソム(George Bailey Sansom。1883〜1965年。近代以前の日本に係る歴史学者)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Bailey_Sansom
については、以前、コラム#4335と4120で触れたことがありますが、彼の名前は、父の蔵書にあった、彼の著書、大窪愿二訳『世界史における日本』(岩波新書 1951年)で前から知っていました。
 この著書は、彼の代表作ではないようですが、全くその内容を記憶していないところを見ると、読んだ時、感銘を受けなかったのでしょう。
 彼の生涯については、英語ウィキペディア上掲か、日本語の下掲の最初のあたりをご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b19494311dd33e22d9fff9897d452976

 さて、「戦後、1950年、日本を<再び>訪れたサンソムは、<講演の中で、>・・・「日本人ほど偉大なものに寄与する数々の素質を多く恵まれた国民はありません。それは第一に勇気であり、決断であり、勤勉であり、強い義務感であり、そしてそれなしには人間生活の意味と目的がない美的価値に対するすぐれた感覚であります」」(142)と歯の浮いたようなことを言っていますが、サンソムが、本当に日本を正しく認識できていたのか、疑問なしとしません。
 その理由をご説明しましょう。

 「1934年春から秋にかけて、イギリス政府内部には、「日英不可侵協定」の構想が擡頭していた。ネヴィル・チェンバレン蔵相、ウォレン・フィッシャー大蔵次官がその推進力であり、協定締結の狙いは、中国問題での対日政治的譲歩と引きかえに、日本から経済的譲歩をひきだし、また、海軍軍拡競争を回避することで、ヨーロッパ重点の軍備充実をはかろうという点におかれていた。この「日英不可侵協定」という形の≪対日宥和政策≫には、英外務省内にも、ジョン・サイモン外相や、ロバート・クレーギー参事官<(当時)>のようにこれに追随する動きが見られていた。
 この年、イギリス政府内部で激しい論議の渦をよんだ、この「日英不可侵協定」問題は、結局日本政府の煮えきらない態度で、一片のエピソードとして終わるが、この問題の結着にあたって、・・・駐日英大使館の商務参事官として経済問題を担当<していた>・・・サンソムもひとつの役割を演じることになる。すなわち、彼は、34年の10月末、ロバート・クライブ大使のために覚書をしるすが、その中で、右の問題に間接にふれ、日本に輸出規制を約束させる代償として、イギリスは中国で政治的譲歩を行ない、その手を将来にわたってしばる必要があろうかと疑問を投げかけ、これに対し否定的結論をだしている。日本はやがて経済面で構造的脆弱さを露呈して扱いやすくなるであろうから、慌てて取引する必要はないというのが、その論拠であった。翌年1月の閣議では、サイモン<英>外相はとくにサンソム覚書にふれて、日本についての「当代の最高権威」サンソムの、「この問題にかんする意見は権威あるものとされねばならぬ」と、発言している。」(141、143〜144)

→サンソムは、この動きに水をさすことで、若干なりとも、大英帝国の過早な崩壊に「貢献」した、ということになりそうです。(太田)

 「<1937年の>クライブ前大使の辞任のあとをうけた新駐日大使<については、>・・・一部にはサンソム<大使館参事官>の大使昇格への呼び声が高かった。しかし、結局はクレーギー次官補<(当時)>の起用に決った。チェンバレン首相の推挽があずかって力あったといわれる。・・・
 ≪穏健派≫の力へのクレーギーの評価に対し、サンソムは極めて懐疑的であり、またクレーギーの一般的な楽観主義に対し、サンソムの悲観主義は顕著であった。・・・
 日本経済の健全性についても、・・・日本経済が深刻な財政危機に見舞われるといった見方を、クレーギーは疑問視していた。・・・
 かくて、クレーギーにとって、サンソムの存在はうとましいものとなる。その結果、歴代の大使とは違って、サンソムの深い学殖や、多年の経験にもとづく情勢分析や助言は、クレーギーの外交活動面では用いられなくなる。」(144〜147)

→「日英不可侵協定」の件で、既にクレイギーのサンソム評は固まっていたのであろうと私は思います。もちろん、チェンバレンのサンソム評も・・。
 そんなクレイギーは、サンソムと、決して胸襟を開こうとはせず、従って、サンソムもクレイギーの本当の考え・・「穏健派」と「急進派」に本質的な違いなどないという、形の上ではサンソムと同じ考え・・を知るよしもなかったのであろう、と私は思うのです。(太田)

 「サンソムが1940年の夏、多年勤務した外務省を去る決意を固めるにいたった理由のひとつも、おそらくこの辺にあったのであろう。
 <その前の>1939年夏、天津租界の封鎖問題をめぐって日英関係が緊張の度を深めたとき、サンソムは賜暇帰国中であった。ヨーロッパ大戦の前夜にあるイギリスは、7月22日の有田・クレーギー協定で日本側の要求にまず原則問題で譲歩する。しかし交渉が次の段階に移り、日本側が法幣の流通禁止と現銀の搬出問題でさらに譲歩を迫ると、交渉はまたも暗礁に乗りあげる。困難な局面に立ったイギリス政府は、帰国中のサンソムの意見をもとめた。この交渉についてクレーギーは、交渉が決裂した場合、≪急進派≫が日本の政治を掌握して、ドイツとの軍事同盟を結ぶであろうと警告していたが、サンソムはこのクレーギー見解を反駁して、8月上旬、覚書をしるした。--日本にはもはやイギリスにとっての有用な友人なんかいやしない。日本人はすべてアジアで「新秩序」を望んでいる。この「新秩序」とは、極東からイギリスの勢力を究極的には追い払うことを意味するものだ。重要な問題での譲歩はイギリスの利益とならないし、マイナーな問題での妥協も日本内部での闘争に役立つかどうか疑わしい。大体この闘争たるや、≪急進派≫と、≪穏健派≫との間で進められているといった性質のものではない--。
 <こ>の覚書の中で、サンソムは交渉決裂の場合、とるべき方策について、二つあると進言している。すなわち、第一は、非抵抗で、華北からのイギリス居留民の引揚げという選択であり、第二は、日本に対する経済的報復手段の行使という選択である。
 ハリファクス<英>外相は、一つには7月末のアメリカ政府による日米通商航海条約の廃棄通告という対日圧力手段に支えられ、また一つには、サンソム覚書の情勢分析に助けられて、日本への譲歩を更に進めることを拒む考えを固めた。さらに、彼は、日本との紛糾が激化した場合、サンソムの献策を容れて、覚書中の二つの選択を同時に採択し、日英通商条約の廃棄通告をも行なう決意をもつにいたっていた。
 しかし、独ソ不可侵協定の締結と、ヨーロッパ戦争の発生という新事態は、この時期のイギリス政府が日英通商条約の廃棄通告にまで進むことを不可能とした。」(144〜149)
→ピゴットやその後継の駐日英陸軍武官から、クレイギーは、日本、とりわけ帝国陸軍の横井小楠コンセンサス/対赤露安全保障の考えを叩き込まれていて、アジアで「新秩序」を日本が追求する理由とそれが英国の巨視的な国益に背馳するものではないことが良く分かっていた、と考えられるのに対し、必要最小限の相手にしか機微な話はしない、各国武官の全球的行動様式からみて、政治担当ならぬ経済担当の参事官であったサンソムは、全くこの種のポリティコ・ミリタリー的な話の蚊帳の外に置かれていたに違いない、と私は見ています。
 そう考えないと、いくらサンソムが鈍かったとしても、彼のこのような情勢分析の呆れ果てるほどのピンボケ度の説明ができません。
 ここで再び、サンソムは、若干なりとも、大英帝国の過早な崩壊に「貢献」した、と言えそうです。
 とまれ、クレイギーの予想はことごとく当たり、サンソムの予想はことごとくはずれたことを我々は知っています。
 クレイギーとサンソムのどちらが外交官として優秀であったかは、明白ですね。(太田)
 
(続く)