太田述正コラム#4578(2011.2.23)
<日英同盟をめぐって(続)(その17)>(2011.5.16公開)

 「大正期には、日本人の捕虜観に大きな影響を及ぼす二つの事件が起きた。第一次世界大戦と尼港事件である。軍当局は、第一次世界大戦時、ヨーロッパ大陸で約800万人もの捕虜が出たことに大きな衝撃を受けた。奈良武次軍務局長は、その原因を日本軍人と欧米軍人の捕虜観の相違に求め、「我が邦往古武士の戦場に望むや生還を期せず。敵を殲して凱旋するか否ざれば則ち死あるのみ。…如何に悪戦苦闘し力既に尽きたる場合と雖も之を以て敵に降るの理由となすを許さざるなり」と強調して、部内の引き締めを図っている。
 尼港事件はシベリア出兵時の1920年3月、アムール河口の小都市ニコラエフスクで、同地の日本軍守備隊が市内に進入してきた赤軍の指揮官から武装解除を要求されたためやむなく反撃したが、旅団命令により戦闘を中止し武器を引き渡したところ投獄され、2ヶ月後、居留民も含め122名が虐殺されたという事件であった。この事件を契機として、捕虜は恥辱だという観念に加えて、敵手に陥ったならば残虐に殺害されるという恐怖心も根付いたと考えられる。
 昭和期に入ると、軍国主義宣揚のため、捕虜を恥じて自決した軍人が美談として宣伝されるようになった。有名なのは、第一次上海事変の空閑昇少佐である。重症を負い中国軍に捕われた少佐は、停戦後送還されたが、捕虜となったことを恥じて、多くの部下が戦死した場所でピストル自殺を遂げた。それを新聞等が大美談として取り上げ、演劇にもなった。秦教授は、この事件が引き金となり、捕虜を忌避する考えが定着したと述べている。
 1939年のノモンハン事件では、294人の捕虜が送還されてきたが、彼らは特設軍法会議にかけられ、将校は全員拳銃を与えられ自決させられた。下士官兵は、負傷した者は無罪、そうでない者には「抵抗または自決の意思がなかった」として「敵前逃亡罪」が適用された。捕虜を恥じて帰還をあきらめ、ソ連領内に残った将兵は567人にのぼったとされる。日中戦争になると、帰還捕虜に対する処分はますます峻厳になった。軍法会議で不起訴となった者に対しても厳重な懲戒処分が行われ、教化隊に服役させられ、処分終了後は外地において生活させるなどの処置が講じられた。この背景には、長引く戦争によって軍紀が弛緩し、捕虜となる者が続出したという事情があったと考えられる。そして、太平洋戦争では、いったん敵に捕えられた後に生還した者の多くは差別待遇を受け、状況によっては大尉以上の将校は自決、中少尉には自決か生存かを選択させ、生存を選択した者には死に場所を与えて軍人の名誉を保持させることが、部下に対する最大の慈愛であるとの考え方が支配した。
 捕虜忌避思想が徹底した結果、戦争末期には指揮官が最後の攻撃に際し、『戦陣訓』を引用して捕虜となることを禁じ、重傷者に自決を命ずる事態が続出した。そのため、太平洋戦争における捕虜は死傷者の割りに少なく、193万2300人の死者・・・に対し、1945年8月末現在の捕虜数は秦教授の推計によると、中国大陸を含めて5万人余であった。
 日本人の捕虜観は、1929年にジュネーブで調印された「俘虜の待遇に関する条約」(以下「ジュネーブ捕虜条約」)の批准問題にも反映された。本条約は、ほとんどの連合国が批准したにもかかわらず、日本は陸海軍の反対によって批准しなかった。その第一の理由は、海軍次官から外務次官に宛てた文書によれば、「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し、外国人の観念に於ては必すしも然らず。従て本条約は形式は相互的なるも、実質上は我方のみ義務を負ふ片務的のものなり」という点にあった。また同条約の捕虜処罰に関する規定は、日本軍人以上に捕虜を優遇しているため、海軍の刑罰関係法規の改正を必要とするが、そのような改正は軍紀維持の観点から不可能であるとされた。陸軍の立場も同様で、それは東條元首相の東京裁判での証言からも明らかであった。
 捕虜忌避思想(非降伏主義)は、絶望的な状況下にあっても死ぬまで戦うことを命じたので、精強日本軍の原動力でもあったが、その反面、敵国捕虜に対する軽侮の言動となって、虐待事件を引きおこした。捕虜たちが国際法を持ち出して捕虜の権利を主張したり、その氏名を本国に通告して自分たちの生存を家族に知らせたほしいと依頼することは、「捕虜となることは恥辱である」と考えていた日本人には驚きであり、呆れ果てたことであった。」(279〜281)
 「陸軍士官学校や海軍兵学校の教科書、参考書を見る限りでは、捕虜の権利について十分な教育が行われていたとは言い難い、捕虜の権利を詳細に教えると、捕虜が厚遇されることを知った日本軍人が、安易に捕虜となる途を選択することを危惧したためであろう。将校ですら、このうような状況であったから、下士官兵に対する国際法教育は昭和期にはまったく行われなかった。・・・
 1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約」の第一条<は>、「締約国は、其の陸軍軍隊に対し、本条約に付属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すへし」と規定していた。しかし、陸軍は捕虜関係のものを含めて、この種の訓令を発しなかった。・・・
 陸戦で大量の捕虜を獲得し、その管理責任を負う陸軍当局は、日本が批准していたハーグ陸戦規則中の捕虜関係規定の解説書か、少なくとも当該条文を掲載した教範を作成しておくべきであった<が、一切作成しなかった。>」(283〜285)

→やはり、上意下達と下克上の双方向の要因があったことは争いがたいのではないでしょうか。
 なお、この捕虜忌避思想が捕虜虐待を引きおこす原因であるとは言えないことは、以下で明らかになりますが、この思想が、1937年の南京攻防戦の際の蒋介石軍捕虜殺害(コラム#3520、3534、4120、4335)・・仮にそれが本当に行われたとした場合ですが・・、及び、1941〜42年の香港の戦いやマレー/シンガポールの戦いの際の敵傷病兵等の殺害(コラム#4554、4574)・・英語ウィキペディアの記述が正しいとした場合ですが・・をもたらした可能性はありそうです。(太田)

 「連合国側から捕虜虐待として非難された問題の主因は、給養および医療の欠陥によるものであった。・・・
 <しかし、内地の>収容所・・・<では、>捕虜には日本軍人とほぼ同等の給養が行われていたと見られる。・・・
 外地の捕虜収容所<でも、>食事面で捕虜がとくに差別されていたとは言えないであろう。・・・
 戦況の悪化による食糧、医薬品の欠乏、患者、病院および部隊の増加による衛生人員の不足は捕虜の健康、防疫、診療に重大な影響を及ぼしたが、これは日本軍についても同様で、捕虜を差別したわけではなかった。・・・
 日本軍の医療体制の欠陥は、日本人の死生観と密接に関係していた。すなわち、当時の日本人は生きるか死ぬかの危機に直面したとき、死を従容として受け入れるのが立派な態度であると考えており、傷病者を手厚く看護することに重大な関心を払わなかった。」(285〜288)

→フィリピンにおける、いわゆるバターン死の行進(コラム#3359、3378)への言及がないのは、それが英軍ではなく、米軍に関するものであるからでしょうが、触れた方がよかったと思います。
 また、捕虜と日本兵と同じ給養水準であったのにどうして捕虜の死亡率が著しく高くなったかについての説明は、少なくとも必要でしょう。
 なお、最後の段落の喜多の主張については、典拠が示されていないこともあり、私としては首肯しがたいものがあります。(太田)

 「捕虜がもっとも嫌悪感を抱き、侮辱と感じたのは、日本人が公衆の面前で彼らを殴打することであった、当時の日本では、軍隊のみならず一般の家庭でも、仕付けの一手段として「殴る」ということが日常的に行われていた。軍当局は私的制裁を禁止したが、国民の習慣に影響されて、些細な失敗に対しても殴ることは敗戦までなくならなかった。日本人は一般に極めて短気で、些細なことにも激昂しやすい。そのため、捕虜に対しても言語の不通や監修の相違により、または非行矯正の目的で、あるいは不服従に接したとき、一時の感情に駆られて暴力を振るったのであり、個人的な怨恨によるものや、苦痛や侮辱を加えようとしたものは皆無ではないにせよ、極めて少なかったと思われる。・・・
 私的制裁にはまた、懲罰の意味もあった。つまり、犯罪や規則違反に対し、正規の手続きで処罰するよりも、拳骨一つで許してやったほうが温情と考えられていたのである。しかし、欧米人にはこの点が理解されず、食糧や医薬品を盗んだ捕虜を「営倉」に入れる代わりに「ビンタ」で済ませたことが、あとで捕虜虐待として戦争犯罪に問われた事例も多かった。」(288〜289)

→「当時の日本では、軍隊のみならず一般の家庭でも、仕付けの一手段として「殴る」ということが日常的に行われていた。」と「日本人は一般に極めて短気で、些細なことにも激昂しやすい。」にも典拠がつけられていません。
 後者については、現在もそうであるというニュアンスですが、韓国人の「火病」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%97%85
ではあるまいし、どなたでも、これが喜多の勝手な思い込みであることはお分かりでしょう。
 さて、肝腎の喜多の前者の主張ですが、それが正しいとすると、多数の旧軍経験者が旧軍における私的制裁の異常性を指摘していることの説明がつきません。
 二つ例をあげておきましょう。

 山本七平(青山学院繰上卒業。少尉):「私的制裁<は否定されるべきものであるところ、それ>を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない」
http://tatsumi.posterous.com/18013293
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%B8%83%E5%B9%B3
 猪熊得郎(旧制中学中退。伍長):「「上官の命は朕の命令だ」「軍人精神を叩き込む」「立派な軍人にしたてあげる」と、全く不合理な命令や私的制裁が公然と日常茶飯事に横行していたのでした。・・・」
http://shounen-hei.blogspot.com/2010/02/blog-post_24.html
http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641

 猪熊が、「<帝国陸軍では、入隊すると>先ず娑婆気を抜く、地方気分をたたき出すことから始まります。閉鎖社会の軍隊では兵営の外の世界(娑婆・しゃば)のことを「地方」と呼んでいました。・・・「僕」「君」などの地方語を使えばそれこそ鉄拳制裁の対象です。「地方の言葉を使うな」、「地方気分を出すな、弛んでいる」。一般社会の常識はここでは通用しません。俗社会から隔絶された特異な「軍隊」の鋳型にはめ込まれ、問答無用で、どんな命令でも従順に行動する兵隊に仕上げられるのです。」(上掲)と言っているように、地方人は、縄文的な、平等、下克上、平和志向、共生等を旨とする娑婆(地方)的意識のままでは弱卒でしかないので、彼らに、弥生的な、階級、上意下達、戦争志向、敵対等を旨とする軍人意識を叩き込んで強兵に仕立てようとした、ということがポイントなのです。
 そのために、将校連中の顰蹙を買いつつも、下士官以下が気を利かして生み出したところの、新規入隊者を対象とする乱暴な通過儀礼が私的制裁であった、というのが私の仮説です。(太田)

(続く)