太田述正コラム#4534(2011.2.1)
<日英同盟をめぐって(その4)>(2011.4.26公開)

<補記>

 私は、東郷茂徳も全く評価していません。
 彼は、太平洋戦争開戦時と終戦時の外相でしたが、開戦時には、対米最終通告が開戦後になってしまうという大失態を演じ、終戦時には、(駐ソ大使を勤めたことがあるというのに、)ソ連に米英と仲介してもらおうという愚作を追求して時間を空費しました。
 何よりも咎められるべきは、戦後の極東裁判において、被告として、「対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を国際法の要求する究極の限界まで食い止めることに成功した。」と陳述し、政府部内の意思決定過程を暴露することで、結果的に、内外における、軍部悪者論の定着化と、開戦時の外務省の失態追及の回避、つまりは自分自身(20年の刑)と外務省を守ることにほぼ成功したことです。
 (以上、事実関係については、東郷に係るウィキペディア上掲による。)
 そもそも、対米最終通告は宣戦布告ではありませんでしたし、いずれにせよ、英国に対しては全くの無通告開戦が行われました(典拠省略)。
 厳しく言えば、これらを含めて、東郷の失態です。
 このような、東郷を見るにつけ、既にこれまで累次申し上げてきているところですが、戦前の外交官の教育訓練と人事に深刻な欠陥があった・・その批判的総括をしていない以上、また、私の役所時代における外交官との交流体験に照らしても、現在も変わっていない・・感を深くします。
 更に補足すれば、自分自身と出身組織を守る言動は当時の外務省関係者の大部分に共通して見られたところ、これは、陸軍関係者の大部分とまことに対照的であったことです。
 陸軍関係者中、例外に属するのは、極東裁判において、戦犯としての訴追を免れるため、検事側の証人として被告に不利な証言を重ねたところの、(最終階級が少将という「小者」たる)田中隆吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89
くらいなものです。(太田)

5 後藤春美「1920年代中国における日英「協調」」

 「<第一次世界大戦が終わった段階で、>アメリカは、日英同盟が日本の中国進出を認める役割を果たしていると問題視していた。英国にとって同盟締結当初の目的はすでに達成され、同盟の維持よりもアメリカとの友好関係の方がはるかに重要だった。アメリカとの関係が悪化すれば戦争中の9億7800万ポンドの負債を即時に返済しなければならないかもしれなかったし、アメリカとの建艦競争が国家財政の破綻につながることは目に見えていた。さらにカナダはアメリカ太平洋艦隊の保護を必要都市、日英同盟に強硬に反対していた。在中の英国経済関係者も日本や日英同盟を非難していた。日英同盟反対運動は、天津、華南、および香港の英国商業会議所で支持されていた。」(280)

→やはり、日英同盟の破棄は米国の差し金であった、としか形容のしようがありません。(太田)

 「日本の政治学者や歴史学者<は、>、ワシントン会議の全権の一人で、1924年から1927年の4月まで、および1929年の7月から1931年末まで外相を務めることとなった幣原喜重郎の国際協調の努力をしばしば強調してきた。
 しかし、当時の外国の外交官は幣原を「国際的志向を持った政治家とはほど遠い」と評していた。また、彼は反英的とも考えられていた。・・・
 1978年に『ワシントン体制と日米関係』が出版されるまで、1920年代英国の対中政策の分析は戦後の日本では皆無だった。英米の政策の相違が無視されたまま、「国際協調」「対英米協調」という言葉が使われてきた。」(281〜282)

→とにかく、戦後日本の人文社会科学の体たらくは嘆かわしい限りです。(太田)

 「<五・三0事件(注10)が起こった時、>日本経済界は非常に<英国に>協力的で、時局に便乗して英国を孤立させることには絶対反対だった。日本が漁夫の利を占めようとした場合最大の恩恵を被っただろう綿業界も同様だった。・・・上海での工場経営によって、租界行政を牛耳る・・・英国の保護なくしては増益を実現できないことに気づいていたのである。紡績業者は、英国との反目を招くかもしれない政策には一切反対だった。
 実業界に比べれば協調についての日本外務省の意見は中途半端だったようである。・・・幣原の考えは、英国との完全な協調を求めた実業家と、状況を利用しようとした者との中間にあったと言えよう。・・・
 大日本紡績連合会<は、こんな幣原の考えに>断乎反対<だった。>・・・関西の紡績業者の代表は6月19日に外務省を訪れ、英国を孤立させる方策をとらないよう要請した。彼らの意見によれば外務省は責任を英国に転嫁しようとしているのだった。
 <日本政府がこんな姿勢なので、仕方なく、英国が牛耳っていた上海租界当局は、>すべての問題の出発点<は>日本の工場での衝突とスト<であるという趣旨の>宣伝活動<を開始した。>・・・
 <これを奇貨として、>日本外務省<は、日本の>紡績業者の説得に成功し・・・日本は<単独で>中国側と<宥和することで>合意に達した。・・・
 英国は・・・日本の単独解決を知って驚愕し・・・英国上海総領事サー・シドニー・バートンは、非常に興奮し、・・・英国外務省へ・・・日本人は裏切ったも同然<である、と電報を打った。>・・・
 <これに対し、>アメリカ<等の>総領事は、・・・<日本政府>を祝福した。」(284〜286)

 (注10)「五・三〇事件・・・とは、1925年5月<15日、上海の日本資本の在華紡で、2人の労働者の解雇に抗議していた中国人と、2名のシーク教徒の共同租界警察官に支援された日本人の間に衝突が起こり、一人の労働者が死亡したことに端を発し(283)、>30日に・・・上海でデモに対して<英国人警部指揮下の(283)>租界警察が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件。・・・この事件に続く一連の反帝国主義運動を、五・三〇運動・・・という。
 ・・・<この運動は、中国>全国に・・・広が<り、>・・・1926年10月まで続けられた。
 この事件は、例えば運動の中心が学生から労働者へ変わったなど、中国の民衆運動が五四運動から次の時代・段階に入ったことを示す画期的な事件であるとされる。また1925年7月の広東(広州)国民政府成立を後押しする大きな力となったとも評価されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%89%E3%80%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6

→幣原外交は、日本の世論に逆らい、英国を怒らせ、米国に追従しつつ、支那における日本の経済的拡大を図るという、独善的かつ利己的な外交であったということです。(太田)

 「ワシントン会議での取り決めによって、1925年10月26日に北京で関税会議が開かれた。幣原はそれまでチャールズ・エリオット駐日英国大使に中国の関税自主権を検討課題とすべきではないと語っていたが、会議の冒頭で日本代表団は、中国に段階的に関税自主権を付与する用意があると宣言した。・・・
 英国外務省もすでに何らかの譲歩をした方が賢明と考えるようになって<はいたが、>・・・通過税・・・を徐々に廃止することと引き替えに段階的に関税自主権を付与する用意<で>あった。・・・英国が驚愕したのは、<通過税>廃止を条件とせずに関税自主権を与えるという・・・動議<を>・・・11月17日、日本が・・・出し、・・・アメリカ代表団がすぐに支持し、動議<が>可決された・・・ときであった。・・・
 入江昭に<言わせれば、幣原>は「国際協調主義なるイメージとは全然逆」であった。・・・
 <もっとも、>北京政府の内紛により、1926年7月、関税会議自体が流会となってしまった。」(286〜287)

→まさに、幣原外交は国際協調外交とは対蹠的な代物だったのです。(太田)

 「<田中義一内閣の時の>済南事件<(コラム#214、215、4378)>の最中および直後・・・、英国は全般に中国よりも日本に同情的<とな>った。たとえば、5月8日ウィンストン・チャーチル英国蔵相はチェンバレン<外相>にあて、「今こそ日本人に、われわれは野蛮と残虐に反対し文明の側に立って、日本人に全幅の同情を寄せていると感じさせる時である」と書いた。この時チェンバレンは完全にチャーチルと同意見であった。英国人のこのような考えの最大の理由は、前年の南京事件の<時の幣原のやり口についてのひどい>記憶であった。」(297)

→この時期、あのチャーチルにも、在支英国人達と同じような回心が対日観において見られたことは興味深いものがあります。
 これぞまさに、(陸軍出身の)田中義一首相兼外相の外交の成果であったと言うべきでしょう。
 ただし、在支英国人達とは違って、チャーチルの対日観は、その後また元に戻ってしまったことを我々は知っています。(太田)

 「英国外務省極東課は1925年から1927年にかけての日本の非協力的な姿勢を忘れること<が>できなかった。漢口事件、上海への脅威、南京事件の際に、日本が軍事力の行使に反対で、強硬抗議以外に手だてはない、と答えたことを覚えていた。極東課は日本を批判した。日本が理解するところの協調とは非常に一方的なもので、英国が困難に直面していた時・・・ことに1925年と1926年において、主としてソ連の刺激のせいで、中国人はほとんどわれわれ<英国>に対してのみ目覚めつつあった怒りの攻撃を最初に向けた・・・日本は助けなかったくせに自分が問題に直面すると助力を求める、というのであった。」(300)

→しかし、英国政府首脳達や在支英国人達とは違って、英外務省の事務当局は、どうしても幣原外交への怒りを忘れることができなかったことが分かります。
 なお、彼らは、幣原が、世界覇権国から滑り落ちつつあった英国を見限り、新たに世界覇権国になりつつあった米国に対する追従外交を展開した・・米国のご機嫌を取り結んだ上で英国を出し抜いて支那での経済的拡大を目指した・・ことも批判すべきでした。(太田)

 「<幣原外交>の第二期<(1929〜31年)>に幣原は日中間の和解を達成することにも成功しなかった。・・・
 確かに幣原の政策は田中外交に比べれば暴力的ではなかった。しかし、中国は日本の経済拡大から恩恵を受けなかった。中国人は幣原外交を単に異なった種類の帝国主義的侵略と考えたのである。」(302)

→これは第二期の話ですが、幣原外交の第一期(1924〜27年)についてもあてはまるでしょう。
 幣原の外交は、英国との離間を招いただけで、支那との関係改善にも全く成功せず、また、追従を続けた米国の信頼を勝ち得たわけでもありませんでした。
 米国にしてみれば、日本(や英国)が何をしようと、その意図するところは東アジアにおける日本、世界における英国の覇権を堀崩すことであったからです。
 日本と英国が離間したことは、米国にとってはもっけの幸いであったに違いありません。
 幣原、ひいては外務省は、戦間期において、日本に害だけをもたらしたところの、国賊的外交を行った、とあえて強調しておきましょう。(太田)

(完)