太田述正コラム#4530(2011.1.30)
<日英同盟をめぐって(その2)>(2011.4.24公開))

3 村島滋「20世紀史の開幕と日英同盟--1895〜1923年の日英関係」

 「<日英>同盟締結という段階にまで発展させた直接的契機は、1900年秋、義和団事変に続くロシアの満州占領・・・であった。・・・
 日本では・・・ロシアの満州占領の圧力は韓国に及び、ひいては日本の自衛を危うくする恐れありとして満州危機を「満韓問題」と捉え、また・・・日露の衝突は早晩不可避と見<た。>・・・
 英国は、ロシアの満州占領を揚子江流域の自国権益への「潜在的脅威」と見なして重視し、・・・<1901>年7月に至り、非公式に同盟交渉開始の希望を日本側に表明する。・・・
 いま一つ、1898年以降の極東水域でのロシアの海軍力増強、1898、1900両年の、明らかに英国を想定したドイツの海軍法制定、などの諸事実は、これらに対抗するための大英帝国防衛戦略、外交体制の再編成を不可避にしていた。」(220〜221)
 「英国が前世紀末以降対米政策を転換し、米性戦争後のアメリカの対外勢力拡大、対中国門戸開放政策を肯定したことはとりわけ重要であった。1900、1901年次の英米条約(ヘイ-ポンスフォート条約)で英国は中米方面の支配権の対米譲渡、カリブ海の英艦隊撤収を実行した。」(221)

→19世紀における世界覇権国であった英国は、伝統的に、地理的意味での欧州では大陸側の強国、アジアではロシア、をそれぞれ脅威と認識してきたところ、その国力の相対的減衰に伴い、アジアでは日本と覇権を分け合い、西半球では米国に覇権を譲り渡すことで、欧州大陸の強国・・当時においてはドイツ・・の脅威に対処し、引き続き地理的意味での欧州において単独覇権を維持しようとした、ということです。(太田)

 「1902年1月30日、・・・<日英同盟は>調印され、ただちに発効した。・・・
 <日本>国民の大多数が、同盟締結が「政府間の人為的結合でなく、実に両国民の思想、感情および勢力の結合したるものに外ならず」・・・高橋作衛「日英協約論第一」『国際法雑誌』第一巻二号(1902年)1頁・・との見方を肯定したであろうことは十分推測出来る。・・・」(222〜223、245)
 「同年(1902年)8月行われたエドワード7世の戴冠式に日本は天皇名代小松宮彰仁を派遣したが、式後の記念観艦式の際、新王は参加の日本艦隊(「浅間」・「高砂」)の司令官伊集院五郎少将と「同盟国の将官として互に対坐緩話」した。彼は・・・日本に関心を寄せていたといわれる。王の伝記作者・・・は、「彼の治世の歴史的重要性は孤立を放棄し、協商と同盟の組織に代えたことである」と記した・・・。」(222〜223)

→シュティーズの「愛ではなく」(コラム#4528)は、少なくとも日本側については誤っているということになります。
 他方、英国側についても、トップの国王の例を見る限り、シュティーズが誤っているらしいところ、「臣民」たる英国の主要メディアや有力者が、「愛により」的なことを当時言明した例がないのか、探している次第です。(太田)

 「日英同盟の圧力でロシアは4月満州撤兵条約に調印せざるを得なかった。」(224)

→何度も強調しておきますが、日英同盟はロシアを第一義的な仮想敵国とする同盟だったのです。(太田)

 「<日露戦争が始まると、英国>世論は親日的で、軍需品等供給のほか、日本の優勢も反映して戦費の半ば8千万ポンドが主として英米金融市場で調達された。指摘されるべきいま一つの面は、戦争を英国自体の外交、戦略上の立場強化に積極的に利用したことである。開戦直後の4月、英仏協商を締結した。まさに「外交革命」であ<った。>・・・
 そして、<日露>戦時の英国外交の最後の、かつ最大の成果が第2回日英同盟協約の締結であったといってよかろう。」(226)
 「新協約の公表は、<日露>講和反対運動で一時不安定に陥った日本国民の意識を鎮静化させた。10月英国中国艦隊の訪日は東京、横浜はじめ寄港各地で盛大な歓迎を受け、天皇はノエル司令官と会見、新たな同盟路線出発を祝福した。・・・
 1905年11月英国は他に先駆けて駐日公使館を大使館に昇格させ、12月日本も同様な措置をと<った。>」(227〜228)
 「1912年7月、明治維新への英国の貢献を評価し、親英感を強く抱いていたといわれる明治天皇が逝去した。」(224)

→日英同盟のおかげで、日本と英国はアジアにおけるロシアの東での進出をとりあえず食い止めること、英国は地理的意味における欧州においてドイツに対処する態勢を構築すること、に成功し、ここに目出度く日英同盟は改訂されるに至った、ということです。
 ところで、当時、英日両国とも、君主が統治に影響力を有していたことも興味深いところです。
 英仏協商については、エドワード7世が率先してそれを実現させたものです。(「英仏協商100年」シリーズ(コラム#309〜311)参照。なお、そのシリーズでは、英仏協商締結への日英同盟の「貢献」については全く触れなかった。それは、そのシリーズが、執筆当時の英国の典拠のみによって書かれたからである、ということでご宥恕いただきたい。)
 日本の君主(天皇)は、その後、英国よりも、先に「君臨すれども統治せず」に徹するに至ったわけですが、その理由は、もともと平安期から明治維新まで、天皇は象徴的存在に過ぎなかったことが大きいわけですが、直接的には、大正天皇が病弱であったこと、そして何よりも昭和天皇の強い意向があったからでしょう。(太田)

 「<第一次世界大戦中の19>17年5月ジョージ5世は駐英珍田捨巳大使に欧州派遣日本艦隊の働きを賞揚し、さらに日本駆逐艦の増派を希望した。日本もこれに応えて増派した・・・。
 <第一次世界大戦後の>1921年・・・日本政府<は>皇太子の英国中心の訪欧という大行事に踏み切った・・・。5月、訪欧に際しての英国官民の盛んな歓迎は日本国民を満足させた。・・・日本の新聞はこれが日英同盟更新の可能性を増大するであろうと報じ<た。>・・・」(238、241)

→第一次世界大戦以降まで、日英両国間で実質の伴う王室外交がなお続いていたわけです。(太田)

 「<ところが、>中国およびアメリカの・・・日英同盟更新・・・への反対の訴えと、<1921年>6月開催の大英帝国会議での対米協調強化を求めるカナダなど自治領の主張や、さらにグリーン前駐日大使やその他極東在住英人関係者らの反対論鼓吹で、首相、外相以下英政府の当初の同盟単独存続の意向は大きく動揺し、アメリカを含む多辺的協定構想へと移行するに至った。・・・
 <7月、>駐米大使幣原喜重郎は、日英同盟は米国に対抗する意図を有せずと声明し、、・・・国際連盟に日英同盟に関して、連盟規約の優先を認める・・・共同通告がなされた。
 こうして連盟規約と抵触しないよう改訂を前提として同盟継続の線で日本と同意しながらも、最終的には英国は海軍軍縮、中国の門戸開放両面から日本抑制を意図するアメリカに同調せざるを得なくなり、同盟廃棄に導くことにな<る>。・・・ワシントン会議<(1921年11月12日〜1922年2月6日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1922%E5%B9%B4) (太田)
)で>・・・アメリカは「日英同盟廃棄せざれば海軍軍縮をなし得ず」と主張し・・・た。<1921年>12月13日、太平洋に関する四国条約が成立し、日英同盟廃棄が決定した。その最終段階で、軍事同盟的条項を含む英案を、協議的条項に変えて米国の受諾を可能にし、妥結に導いたのは全権幣原喜重郎であった。」(242)
 「1923年8月17日ワシントン条約批准書寄託により同盟は正式に終焉、日英関係は全く新しい段階に入ることとなった。」(243)

→ここで押さえておくべきことは、日英同盟廃棄の頃には、「極東在住英人関係者」は反日的であったこと・・この後に出てくる話とからむ・・、そして、幣原喜重郎は、この頃、早くも米国追従(=反英)主義者ぶりを遺憾なく発揮していたことです。(太田)

(続く)