太田述正コラム#4524(2011.1.27)
<ワシントン体制の崩壊(その12)>(2011.4.21公開)

 「1920年代および1930年代初頭に日本に在勤した大部分の外交官は、日本を東アジアの第二流国に格下げした国務省の分析に異議を唱えることは出来なかった。・・・アメリカの駐日大使たちは、両国文化の隔りに気付かず、また日本の国内政治と対外政策に関して一貫した判断をもつには、日本について無知に過ぎることにも気付かなかった。彼らは日本を理解しているという幻想にたちどころに陥った。英語を話すことの出来る欧米志向型の少数の日本人グループが、日本の複雑な国内政治及び外交政策の道案内を買って出た。その援助によって彼らは日本を理解したと思い込んだのであった。・・・日本社会における枢要な地位は欧米で教育を受けた者に握られている、という伯爵樺山愛輔<(注28)>の判断を受け容れて、バンクロフトは「統治の枢要な地位にはアメリカの大学卒業者が多数いるので、日本をアメリカの献身的な永遠の友とするには、両国関係の同情的取扱いだけで充分である」と本国に報告している。バンクロフトは・・・1925年1月末には、日本のほとんどすべての重要人物を知っていると信じていた。彼の後継者であるチャールズ・マクヴェイも・・・同様の態度をとった。渡日を控えた<その次の駐日大使の>ウィリアム・R・キャッスルにマクヴェイは「日本で知り合う価値があるのは樺山伯爵と金子<堅太郎>子爵<(注29)>だけです。・・・」と伝えている。・・・
 このように限られた交際の必然の結果が一面的な分析であった。・・・
 バンクロフトは、陸軍や海軍については言及さえしていない。・・・
 1920年代の大部分のアメリカ人と同様に、アメリカの駐日大使たちも、国際関係についての遵奉主義的で楽観主義的な見解、即ち国家間の自然調和を強調する見解をもっていた。彼らは国際的不安定の重大な諸原因を認識できずに、日米両国間の文化の隔絶を過小評価した。その結果が、日米両国間の相違は表面的なものに過ぎないという単純な信念となったのである。」(229〜231)

 (注28)1865〜1953年。「1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館どつくや日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年に貴族院議員に選任され、1947年に貴族院が廃止されるまで務めた。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して終戦工作に従事した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E6%84%9B%E8%BC%94
 (注29)1853〜1942年。男爵→子爵→伯爵。「ハーバード大学法学部で法律を学び、・・・東京帝国大学の初代行政法講座の初代担当者となる。・・・伊藤博文の側近として、伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備。・・・伊藤博文内閣<において>農商務大臣、・・・司法大臣を歴任。東京株式取引所理事長に就任。 ・・・日露戦争において・・・<ハーバード出身の>セオドア・ルーズベルトと面識<があったことから、>・・・アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。<エドマンド・バークやアルフレッド・マハンの紹介者としても知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E

→戦前の米国で対日外交に携わっていた連中は、文字通りの税金泥棒であったということです。
 先方から近づいてくる米国追従者達だけの話を聞くだけでお茶を濁していたわけですからね。
 (何度もくり返すようですが、彼らのカウンターパートたる日本の外務省の外交官達がおしなべて無能でやる気もなかったため、碌な情報を彼らにインプットしなかったとも想像されるわけです。)
 これでは、その外交官の多くが日本語が堪能で、日本に惚れ込み、積極的に広汎な日本人と交流することを旨とし、かつ帝国陸軍に英国の隊付将校を多数送り込んでいた英国に、日本認識において、米国が逆立ちしてもかなうわけがありません。(太田)

 「アメリカの東アジア政策の中心に日本を据えようとするもっともはっきりした努力は、ハーバート・フーヴァーの大統領就任とともに始まった。フーヴァーは中国における自己の体験から、中国の将来に関して広汎に流布している見解には同調しなかった。彼は日本の経済の活力と政治の安定に印象づけられ、産業国家の世界共同体の重要な一因として日本を評価したのである。<しかし、このフーヴァーの期待に応えうる外交官は米国にはいなかった。>・・・
 <その上、このフーヴァー<、>・・・やがて経済不況で気をそらされてしまった。」(232)

→累次申し上げてきたように、フーバーは、米国人としては例外的に国際感覚が確かな傑出した大統領だったのです。(太田)

 「1925年に中国公使となったマクマリーは北京の欧米人世界から遠くへ出たことは一度もなかった。・・・
 <1年経ってから>はマクマリーも各地を旅した。しかし彼は自分が直接に得た印象や、アメリカの宣教師や実業家たちからの情報にはあまり重きを置かなかったようである。マクマリーは、アメリカは条約上の諸権利を放棄すべきであると主張する宣教師たちを軽蔑しており、また、大部分のアメリカの実業家たちを、狭い開港場的な考え方に犯されている者たちであると考えていた。彼は情報の大部分を、自分のスタッフや、中国各地に散在するアメリカの領事たちから受けとっていたようである。しかし大部分のアメリカの領事たちは過去にとらわれており、彼らの身辺に擡頭しつつある新勢力を理解することができなかった。・・・
 中国で起った「感情的な暴発」はマクマリーを驚かせた。新しい自己主張、自意識、欧米人とその諸権利に対する尊重の減少、等も同様であった。巨大な変化が疑いもなく起っていた。しかしマクマリーはこの諸変化に当惑しており、また自分が理解できないものを軽蔑していた。・・・
 彼は、すべての軍閥指導者が全く同じにみえるような「もっとも異様な、顛倒した、現実離れした所」に住んでいると確信していた。」(240〜241)

→マクマレーもひどいものです。
 彼には、重要情報源たる支那人すら全く存在しなかったようですね。
 しかも、以下の基本的な2点を彼は対東アジア外交に携わっていたその他の米外交官達と共有していたのですから、彼が、支那をさっぱり理解できなかったのも当然です。
 (日本のことにほとんど関心がなかったのですから、日本の台湾統治の見事さや日本人一般の抱く赤露への恐怖心を知る機会もなかったことでしょう。)(太田)

 第一点は、米国のフィリピン統治が、(その植民地化の経緯のみならず、統治そのものにおいても)大失敗であったことを自覚していないことです。↓(太田)

 「<アメリカの外交官達>はフィリッピンにおけるアメリカの成功に誇りをもっており、この例が、アメリカの博愛主義の証拠として、またアジアと欧米の両文化が如何に効果的に融合しうるかの証拠として、役立つと思っていた。」(246)

 第二点は、東アジアにおける赤露の脅威が全くと言っていいほど見えていなかったことです。↓(太田)

 「結局アメリカ人は中国における共産主義の脅威という考えを退ける方向へ行き、アジアについて考える際日本に特別な重症性を与えなかった。もし共産主義の脅威ということを重視すれば、アメリカの対日観は変っていたかもしれない。」(232)

 「マクマリーは・・・ワシントン条約システムに何の欠点も見出しえなかった。彼はワシントン会議での約束を履行しなかったのは列強ではなく中国の方であると信じていた。彼は条約上の諸権利の譲歩に反対であり、イギリスや日本との緊密な協調を強く主張していた。現地外交官の方がワシントンより硬直した中国政策を主張していたのである。・・・
 南京事件に激怒したマクマリーは、・・・列強は上海の南のすべての港を封鎖すべきであると主張している。・・・
 1928年1月に彼はケロッグ国務長官に、・・・列強が干渉を斥けることは、列強自身の利益に反するだけでなく、中国自身の利益にも反することであ<る>。・・・「・・・<なぜなら、干渉は、>中国における法と秩序の回復に・・・おそらくもっとも強い刺激剤になるであろう」<からだ、と伝えた。>」(242〜243)
 「マクマリーの後任のジョンソン公使は中国の行き過ぎに対してより寛容であり、排外主義と民族的自己主張の避けようもない波動の前に身を屈することを何とも思っていなかった。しかしそのジョンソンでさえも、中国に着任してからは、・・・軍部の首脳たちは皆「私利私欲的」で「個人的な欲望と野心」を越えた物事を見ることができず、国家を統一する諸原理を表現することができないように見えた。」(244)

→ニュウはマクマレーに批判的ですが、この点に関する限り、マクマレーに軍配を上げざるをえません。
 支那の実情は知らなくとも、論理の問題としてマクマレーは「正論」を吐くことができた、ということでしょう。
 このような合理論的な物の考え方は危険なのですが、結果的にそれが当時の英国や帝国陸軍や日本の世論の考え方とも一致し、支那の実情にも合致していた、というのが私の見解です。

 さて、1935年に彼が書いた報告書「極東における米国の政策に影響を及ぼしつつある諸動向について」もまた、この「正論」で貫かれているところ、駐中国公使時代のマクマレーと180度違っているのが、この報告書における、彼の支那観であり日本観であり、赤露に対する強い警戒心です。
 すなわち、この報告書の中で、マクマレーは、東アジアにおいて(支那ではなく)最も日本を重視するとともに、米国がその日本を追い詰めてきたことを批判し、日米戦争は必至であるとしつつも、その後の米ソ、米中対立を予想し、敗戦後の日本の世界の一大強国としての復活さえも予言したのです。
 一体、このようなマクマレーのめざましい「成長」をもたらしたものは何だったのでしょうか。
 駐中国公使時代に「正論」に固執して当時のケロッグ国務長官と衝突したマクマレーは国務省を退職せざるをえなくなり、ジョンズ・ホプキンス大学教授に就任しますが、この時期に彼の回心が起こったとは考えにくいものがあります。
 コロンビア大学ロースクールの一年後輩で友人であった、フランクリン・ローズベルト大統領の引きで1933年に国務省に復帰し、バルト諸国の公使に任命されたことが彼の回心をもたらした、と私は考えます。
 (以上、事実関係は、『防衛庁再生宣言』(209〜217頁)による。)
 というのは、バルト三国は、ロシアに併合されていたところ、第一次世界大戦後、かろうじて独立したものの、これら諸国の人々は、いつまたロシアに併呑されるかという恐怖にまんじりとしない思いでいたはずであり、それを直接見聞することで、マクマレーは日本人が抱いていたロシア恐怖心をついに理解するに至ったのではないでしょうか。
 また、赴任当時は米国はまだソ連と国交を結んでいなかったので、マクマレーはソ連情報収集の任務も課されていたに違いなく、彼は、その業務を通じて、ソ連、すなわち赤露のおぞましさに通暁するに至ったと思われるのです。
 そして、バルト諸国やポーランドと違って、ロシアに抵抗し、ロシアを打ち破り、ロシアを押し戻すことに成功した日本の偉大さにも、彼は目覚めたに相違ありません。
 すなわち、ロシアとその後継たる赤露、そしてこのロシア/赤露に一貫して決然と抵抗してきた日本、という認識を持ったことを契機に、マクマレーは日本びいきへと大転換を成し遂げた、と考えられるのです。
 そのマクマレーは、駐中国公使時代に抱いていた危機意識とは比較にならないくらいの危機意識を米本国の対東アジア政策に対して抱くに至ったはずであり、それが、1935年の一時本国帰国中における、管轄外の案件に係る上記報告書執筆につながった、ということでしょう。

(続く)