太田述正コラム#4518(2011.1.24)
<ワシントン体制の崩壊(その9)>(2011.4.18公開)

5 ウォルター・ラフィーバー「米国極東外交の主題--「競争対強調」か経済進出か--」(平野健一郎訳)

 これは、比較的論旨が鮮明な論文です。

 「シオドア・ローズヴェルトが言ったように、「米国のフロンティアが西に向かって中国の奥地にまで拡張する」可能性があるという考え方は消えなかった。・・・
 ところが、当面の問題となったのは孔子ではなく日本であった。・・・
 ウィルソン政権は、・・・ヨーロッパ勢力の後退によって生まれた真空が日本の力によって完全にうめられてしまう前に、それをうめるなんらかの政策を打ち出さなければならなかった。その必要性は、米国自身が欧州大戦に参加した1916年の晩冬には、さらに一層切迫したものとなった。・・・
 ウィルソン<は>・・・<米参戦前の1916年>2月はじめに・・・閣議で次の様に語った・・・すなわち、ドイツとの外交関係を断たなければならないのかもしれないが、「率直にいうならば、自分は、白色人種もしくはその一部を、黄色人種--たとえば、ロシアと同盟して中国を支配する日本--に対抗しうるほど強力なものにしておくためには、何もしないことが賢明であると感じれば、何もしないつもりであり、何事をも、弱腰とか臆病とかの非難をも甘受するつもりである、と・・・」。」(196〜198)

→改めて、ウィルソンが、ある意味で、セオドア・ローズベルト以上に露骨な人種主義的帝国主義者であったことがよく分かるくだりですね。(太田)

 「結局、東からの強い引力にウィルソンは抗し切れず、米国は<第一次世界大戦に>参戦したが、参戦後、ランシングは石井-ランシング協定<(コラム#4500)>によってアジアにおける米国の利益を擁護しようと試みた。協定の秘密議定書が、大戦中、中国を日本の領土的野心から守ってくれるように思われた・・・」(198)

→既にセオドア・ローズベルト政権の頃から、有色人種国たる日本との「戦い」の火蓋を切っていた米国のウィルソン政権は、「身内」のドイツを東で叩いている間に、西で日本の勢力が伸張しないよう、休戦協定たる石井・ランシング協定を日本に結ばせた、ということです。(太田)

 「米国の極東政策の構造がきちんと組み立て直されるには、<民主党のウィルソン政権の後の大統領>ウォーレン・C・ハーディング、国務長官チャールズ・エヴァンス・ヒューズの共和党政権が多くのもつれを解きほぐさなければならなかった。・・・
 <米国>にはいくつかの武器があった。たとえば、大戦中に日本の対米輸出はほぼ三倍、輸入は五倍に増えたため、日本は対米貿易に大きく依存するようになっていた。ヨーロッパはいずれ必ず再び中国関係に参加してくるが、その時日本が蒙る損失は、米国市場の拡大によってうめることができるものと、日本の関係者の一部は考えていた。その上、日本の輸出入の40パーセント以上は、米国海軍が制海権をもつ北太平洋航路を通過し、30パーセントはシンガポールの英国艦隊の砲撃範囲内を通るのであった。さらに重要なことは、日本は中国、満州、山東での建設を進めるために投下できる資本を非常に必要としていたが、十分な金額の資本を提供できるのは、ニューヨーク市だけであったことである。」(204〜205)

→日本と「戦っていた」米国への経済・金融面での依存度を、日本は全く警戒心を抱かずに高めて行き、それを米国政府はほくそ笑んで見ていたわけです。
 また、シンガポールへの言及は、米国が日英同盟を解体させ、日英を離間させることで、何を達成しようとしていたかの一端を示すものです。
 米国は、英国とともに軍事的/経済的圧力をかけて東アジア(支那)において有色人種国たる日本を抑え込む、という構図を、この時点で早くも思い描いていた、ということでしょう。
 米国が思い描いたこの構図は、太平洋戦争直前の、いわゆるABCD包囲網
http://ja.wikipedia.org/wiki/ABCD%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2
となって見事に結実したことを我々は知っています。(太田)

 「基本的なルールは、日本は経済的、軍事的に米国に劣る、というものであった。加藤友三郎も認めたように、近代戦には大規模予算が必要不可欠であるが、日本はその種の資金を米国から借りなければならない。それゆえ、「米国との戦争を回避することは至上命令」であったのである。これを梃子として、ヒューズは門戸開放政策の承認と費用のかさむ海軍軍備の制限を勝ち取ったのみか、日本を大きく後退させたのである。膠州湾租借地は返還され、軍は撤兵し、青島・済南間鉄道も中国に返され、シベリア出兵は終って、軍は北樺太を撤退し、そして、重要な通信拠点ヤップ島についても妥協が成立した。こうした一連の取決めがあれば、西太平洋の制海権を日本に与えておくことも可能となった。実際、日本を新しいルール・・・門戸開放政策を協調的な政治的方法によって維持しようとする<ルール>・・・の強制者として活動させることも可能となったのである。」206〜207)

→以前にも記したように、東アジアで門戸開放を唱え、日本にもこの「ルール」を飲ませれば、経済的に日英より優位にある米国の勢力が自ずから東アジアにおいて伸張する、という「戦い」方で米国は有色人種国たる日本を蹴落とそうとした、ということです。(太田)

 「<こ>の政策は短期的には作動した。米国の日本への資本輸出は1920年代に著しい増加を示し、米国は日本の最上の輸出先となり、日本の方は他のいかなる国よりも多く米国から輸入した。米国は日本の朝鮮と南満州に於ける伝統的な勢力圏を承認し、日本側はそれ以外の中国はすべて開放されることを認めて、両国は友好的に共存した。その間、米国の対中投資は1914年の4920万ドルから1930年の1億5500万ドルへと三倍に増大した。・・・
 終わりの始まりは、1920年代半ばからの中国革命の高揚とともにはじまった。そして、終わりはドルの力が崩壊した1929年にやってきた。米国の経済力が下り坂になるとともに、それに依拠していたワシントン条約体制と門戸開放の構造も傾いたのである。1917〜22年時代の政治的、軍事的構造は、1931年には、経済的基盤を取り去られて、あたかもホネのない皮が歩こうとする姿にも似ていた。日本が別の選択を求めたのはまさにこの時点であった。」(209〜210)

→まさに、この米国が日本にしかけた「戦い」に、無抵抗でなすがままに敗北を重ねて行ったのが幣原外交であったわけです。
 その結果、日本は英国とは決定的に離間することとなり、中国革命は高揚し(=赤露の東アジア蹂躙を許し)、そんなところで出来した大恐慌による米国経済の縮小とそれに伴う米英両国経済のブロック化によって、日本は支那、米国、英国(大英帝国)の資源輸入/商品輸出両市場から閉め出され、東アジアにおいて味方がゼロという四面楚歌の中で苦しむことになり、ついには、米国の、経済力を基盤とする軍事力によって、有色人種帝国たる日本帝国は崩壊させられることになるのです。
 しかし、実は日本は、日本帝国の崩壊を見返りとして米国に大勝利を博したのであって、日本は赤露への抑止戦略を米国に全面的に肩代わりさせることに成功したほか、米国を含む欧米諸国の市場を日本に対して全面的に開かせることにも成功し、おかげで日本は、それまでの人類史上空前の(戦前における)経済高度成長軌道に容易に復帰することができ、その後日本の国力は米国を一時脅かすところまで伸張した、ということを我々は知っています。(太田)

(続く)