太田述正コラム#4512(2011.1.21)
<ワシントン体制の崩壊(その8)>(2010.4.17公開)

 「芳沢公使<は、>ランプソン公使<に対して、>アメリカ人は「楽しみのために」中国にいるのだから、・・・<日英の>役に立たない。それにたいしてイギリス人と日本人は、「生涯のこれからの部分」を中国で過すというのである。ランプソンは、「それこそまさしく私の感じであると言った」と報告した。」(113〜114)
 「ゴート卿<(注26)>の私的な中国情勢概観は、外務省の見解とも一致していた。彼は、・・・アメリカは一つには経済的な私利私欲、また一つには「宣教師の宣伝が生み出した感傷癖」から中国人の機嫌を取ろうとするだろうと感じていた。・・・ゴートは、・・・「[中国は]ロシアのものになるのか、それとも日本のものになるのか」を問うた。」(116〜117)

 (注26)John Standish Surtees Prendergast Vereker, 6th Viscount Gort。1886〜1946年。第一次世界大戦でヴィクトリア・クロス勲章を受章、1927年に上海で支那事情を見学し英国王及び皇太子に報告、第二次世界大戦でも活躍し、元帥となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Vereker,_6th_Viscount_Gort

 「1927年・・・10月、・・・<駐日英大使のサー・ジョン・>ティリー<によれば、>・・・田中<義一>は、中国をめぐる合衆国との対話にはほとんど関心を示さなかった。アメリカの「経済的利益ははるかに小さいし、宣教師の言うことに耳を傾けている」からだというのである。
 田中の積極<外交>政策は、国内での日本共産党にたいする抑圧、議会制政府にたいする毒気を含んだ非難と対になって展開された。・・・3月の内相鈴木喜三郎は・・・民政党は「議会が行政権威の中心になるような政府の形態」をもたらそうとしていると荘重に語った。普通選挙制下の最初の総選挙は、民政党の214議席にたいして政友会が221議席を獲得して、田中政権の辛勝に終った。」(118〜119)

→米国の東アジア「政策」に対する侮蔑意識を当時の日本と英国のまともな人々が共有していたことがよく分かりますね。
 ちなみに、支那の輸入額の国別シェアの推移を見ると、1913年:英国46%(香港を含む。以下同じ)、日本20%、米国6%、1922年:英40、日24、米17、1924年:英36、日23、米18、1926年:英21、日29、米16、1928:英25、日26、米17、であり(133)、日本が急速に英国を追い抜いたこと、米国のシェアが小さいこと、が分かります。(太田)

 「<この頃、>汕頭のイギリス領事は、死刑宣告を受けた汕頭の共産党員が革命歌を歌いながら処刑場にむかって行進したことを報告していた。「これら誤らされた熱狂主義者だけが、新年のために死ぬ勇気のある中国人であることを思うと残念である。彼らの敵も同じような精神をもつようになるまでは、中国を救う真の希望はありえないからである」と<記している。>」(121)

→鋭い、心の痛む指摘ですね。(太田)

 「イギリスは<日本による1928年の>第二次山東出兵は外務省にたいする日本陸軍の優位を示すものと評価していた。」(124)
 「日中関係が7月19日の通商条約の一方的破棄をめぐって緊迫化すると、田中は、日本は「彼らを挫くために独自の政策を取る」と声明した。・・・そして国民党にたいするソ連の影響や、「満州に共産党政権ないしはそれに近いものが樹立される」のを許すわけにはいかないことにも触れた。・・・
 8月半ば田中は、満州が「共産主義と破壊分子の餌食になる」のを防ぐという彼の決意との関連で、日英協力という話題を切り出した。」(124〜125)
 「<英外相代理(?)の>クッシェンダン卿は、イギリスの中国政策を<日本との>「友好的日和見主義」と形容した、奉天<総領事の>デニングは、それは満州の日本人にたいする「寛大な中立」であると考えた。・・・<駐日英国大使の>サー・ジョン・ティリー・・・は満州にたいする日本の態度を批判する人々に水をさし、日本が満州において正直に「これまでよりも寛容な政策を取ろう」としていることを強調した。「実際に日本は、そこで有益な仕事をしており、無秩序にたいする防壁と見なすことができる」。」(126)

→田中義一政権の努力もあり、このあたりまでは、日英協調がかろうじて保たれていたわけです。(太田)

 「1929年6月末、田中が突如として辞任し・・・財政緊縮、軍備縮小、そして「中国のいかなる部分においても、いかなる侵略的政策をも否認する」ことを前提にした・・・<民政党の>浜口<雄幸>新内閣<が発足した。>・・・
 サー・ジョン・ティリーは、「反英的という評判」の幣原外相と交渉しなければならぬということをいささか不安に思った。・・・
 1930年2月選挙では、民政党は政友会の174議席にたいして273議席を得<た。>・・・
 <ところが、そんなところへ>大恐慌<が起こったのだ。>」(128)

→しかし、再び幣原外交が展開されることになります。
 そして、幣原の浜口内閣自身に対し、気まぐれな日本の世論が信任を与えてしまうわけです。(太田)

 「イギリス繊維の売り上げが<日本との競争で、1929〜32年の間に>継続的に低下したことが自由貿易対保護貿易の論争に油を注いだ。そして保護貿易主義の見解が、1932年オッタワ会談を支配し、連邦と帝国にわたる全面的な特恵待遇体制を作り出した。」(136)
 「すべての先進国は大恐慌を通じて深刻な社会的、経済的問題を体験したが、日本の深刻さは合衆国、ドイツ、イギリスとは違ってい<て>・・・大量失業と労働争議はなかった・・・<しかし、>日本の農村と小企業の苦境はきわめて現実的であった。それが、世界市場の繁栄能力を前提にしていた幣原外交にたいする信頼を堀り崩したのは、避けがたいことであった。・・・
 浜口内閣の自由放任経済にたいする信頼の欠如が大きくなったことに加えて、1930年のロンドン海軍軍縮会議が軍備制限にたいする支持を切り崩した。・・・
 海軍条約をめぐる騒ぎにもかかわらず、浜口は陸軍予算の削減を計画した。軍部は、・・・帝国陸軍はすでに列強中最小の予算しか与えられていないという事実にもとづいて政治運動を開始した。1928年の数字は<、イギリス:兵員数543千人、予算512百万円、アメリカ:318、721、フランス:560、507、イタリア:300、324、ドイツ:100、315、日本:200、220であり、>日本よりも兵力が少ないのはドイツだけで、これはヴェルサイユ条約によるものであった。その上、日本軍は沿海州におけるソ連の兵力増強を懸念していた。」(136〜139)

→幣原外交で、日英関係が再びおかしくなっていたところへもってきて、大恐慌が、英国をしてブロック化を追求せざるをえなくしたことから、日本と英国との間には大きな溝ができてしまうのです。
 なお、浜口内閣の軍縮・軍備管理政策によってもたらされた帝国陸軍の装備の質量ともの不足が、その後の大軍拡にもかかわらず、予算が日支戦争経費に食われてしまったため、十分解消されないまま、日本は、先の大戦に突入することになってしまうのです。(太田)

 「1931年9月18日、関東軍は<満州事変を引きおこした。・・・>
 国際連盟を通じて満州に干渉するというイギリスの決定は、民政党内閣と幣原男爵の外交にとって破滅的な打撃となった。」(140、145)

→そのような中、日本は、満州事変を引きおこし、それに対して、英国が国際連盟を通じて日本に対し、真綿で首を絞めるような対応を行ったことから、日英の離間は決定的なものとなるのです。

(続く)