太田述正コラム#4502(2011.1.16)
<ワシントン体制の崩壊(その3)>(2011.4.12公開)

 「1925年末の郭松齢事件<(注9)>にさいしては、関東軍や満鉄側は、郭の掌理は「満州赤化の脅威につながる」としてこれを警戒した。すでにこの年の6月、参謀本部は、「支那は赤化せずとの観察に動揺を来し、ことに昨今の事態はこの如き楽観を許さざるに至れり」と判断を変えていたが、国民革命郡がボロディンらソヴィエト顧問の強い影響下にあり、「共産主義の色彩きわめて濃厚」といった現地の特務機関からの報告は、陸軍中央部の情勢判断に次第に浸透していったものと見られる。宇垣(一成)陸相は、25年末の日記の一節にこうしるす。「支那は白色より灰色になり桃色になり赤に向ひつつあると見ることが正当である」。1926年夏の南口の戦闘<(注10)>には、馮玉祥<(注11)>の率いる国民軍に「約400人のロシア人が砲兵隊などの技術指導の面で参加していた」との情報も伝えられていた。
 ・・・陸軍当局は、その判断をイギリス側にも伝える。ピゴット在日英大使館陸軍武官との会談で(25年12月2日)、畑(英太郎)軍務局長は、その判断をこう漏らしていた。「中国をロシアに従属的な、ボリシェヴィキ国家、もしくは複数の国家群に変質せしめ、インドを解体し、日本の覆滅を狙っていると思われる。ソヴィエト政府の計画には強い警戒の目を向けている」。
 この時期のチェンバレン<(注12)>外交において<は、>、反ソ的志向が強かった・・・。ロカルノ協定<(注13)>締結は、その傾向の典型的な、具体的結晶であり、また26年に入ると、英ソ間には国交断絶が見られ、両国関係は緊張の度を高めていた。したがって、「ボリシェヴィズムの脅威」意識を共有すると見られる日本に対して、そのシンボル操作を通じて結託を強めることは効果的とされた・・・。」(16〜17)

 (注9)郭松齢(1883〜1925年)は北京政府の張作霖を頭目とする奉天派の有力軍人。「1925年・・・11月、奉<天派>軍と馮玉祥率いる<ところの、中国国民党軍と気脈を通じていた(太田)>国民軍との衝突が発生すると、郭松齢は張作霖から国民軍討伐を命じられた。しかし郭は、これを拒否し、・・・<逆に>張作霖<ら>を討伐しようと図った。<しかし、関東軍、満鉄、外務省奉天・天津両総領事は、国民党を赤露の手先、国民軍はそのまた手先であると見て警戒しており、>関東軍は郭松齢に対して警告をおこない、南満州鉄道とその附属地20里以内での作戦を許可しない旨を伝えた。これにより張作霖は、反撃のための動員を行うことが可能となった。郭は12月23日に敗北し、・・・逃亡したが、結局は逮捕されてしまう。12月25日、郭松齢<夫妻>は・・・揃って銃殺された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%9D%BE%E9%BD%A2
 (注10)「1924年9月、・・・直隷派軍閥の馮玉祥・・・は部隊を率いて北京に<入り>、・・・直隷派によって掌握されている北京政府<を脅迫、>、・・・「国民軍」の成立を宣言した。政変後、馮玉祥は・・・旧・清朝皇室(愛新覚羅溥儀)を紫禁城から追い出した。また、・・・<彼は、>奉天派と協議し段祺瑞<(脚注)>を北京に迎え入れ中華民国執政にした。
 ・・・馮玉祥は・・・、1926年4月9日に再びクーデターを起こし段祺瑞を追放したが、すぐに奉天派に攻撃され敗北し、4月15日に北京から西方郊外・・・に撤退し、1926年5月18日奉天派の張作霖と直隷派の呉佩孚が連合して南口に侵攻した。馮の率いる国民軍は南口を3か月にわたって守り抜き、8月15日に・・・撤退した。
 この戦役は、北京付近に奉直両派の主力を引き付け、北京南方の守備を手薄にし、国民革命軍<(国民党軍)>の北伐の強力な後押しとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%94%BF%E5%A4%89
 (注11)馮玉祥(ふう ぎょくしょう。1882〜1948年)。キリスト教徒たる軍人。北京政府に属し、当初は直隷派であったが、後に国民軍を組織し、その指導者となった。<その後、>全軍で中国国民党に加入した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5
 (脚注)段祺瑞(だんきずい。1865〜1936年)は袁世凱に重用された軍人。「1916年、袁世凱が死去すると、・・・北京政府の事実上の指導者となった。段祺瑞は日本との関係修繕に務め、西原借款などを積極的に導入した。しかし1920年、[安徽派の段祺瑞は]安直戦争に[おいて、直隷派の曹錕・呉佩孚、及び奉天派の張作霖の連合軍に]敗れて下野している。<その後、今度は、>≪直隷派の呉佩孚と奉天派の張作霖の間で1922年(第一次)と1924年(第二次)の二回、<奉直>戦争が行われ・・・1922年は直隷派が勝利したが、1924年は<<呉佩孚が>部下の馮玉祥の裏切りにあい> 奉天派が勝利し、張作霖が政権を掌握した。≫<そして、段祺瑞は、>1924年、張作霖の支持を受けて北京における臨時政府の執政に就任。以後は反日運動を行なう学生らを弾圧するなど(三・一八虐殺事件)したが、これが原因で1926年、<馮玉祥ら>から反発を受けて再び下野を余儀なくされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B5%E7%A5%BA%E7%91%9E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%9B%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E7%9B%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 (≪≫内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%BD%A9%E5%AD%9A (<>内)
 (注12)オースティン・チェンバレン(Joseph Austen Chamberlain。1863〜1937年。英外相:1924〜29年)あの英首相のネヴィル・チェンバレンは異母弟。ロカルノ条約の締結によってノーベル平和賞受賞。
http://en.wikipedia.org/wiki/Austen_Chamberlain
 (注13)ロカルノ条約(Treaties of Locarno)。1925年10月にスイスのロカルノでベルギー、チェコスロバキア、仏、独、英、伊、ポーランドの7カ国間で仮調印され、12月にロンドンで正式調印されたところの、ベルサイユ条約締結後のヨーロッパに集団安全保障体制を構築する為の7協定の総称。
 その主な内容は、ドイツ、フランス、ベルギー間の国境不可侵、ラインラントの非武装地帯化(ライン条約)、ドイツ、ベルギー、ポーランド間の紛争調停の為の協定、仲裁裁判条約。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/ro/locarno.html

→一見ややこしいですが、「赤露/中国共産党」>「中国国民党/馮玉祥(国民軍)/郭松齢」>「呉佩孚(直隷派)/張作霖(奉天派)」>「段祺瑞(安徽派)/日英」、といった感じで赤露との距離でもって横に並べてみると、かなり分かり易くなるのではないでしょうか。
 紛れもなく、まだ、大正末から昭和初にかけての1925〜26年の時点においては、対露を念頭においていたところの、日英同盟は、形式的には1923年に失効していたけれど、事実上継続していたのであり、恐らくは、こういった感じで、日英の本国政府は、支那を憂慮の念を持って注視していたと思われます。(太田)

(続く)