太田述正コラム#4500(2011.1.15)
<ワシントン体制の崩壊(その2)>(2011.4.11公開)

 「1923年・・・11月末、孫文は広東政権の財政難を打開すべく、海関の実力接収を考慮していると・・・伝えられた。・・・
 九国条約<(注5)>当事国<中の>・・・米・英・仏・伊・日・ポルトガル各国の軍艦が多数、広東に終結し・・・た。・・・事態はしばらく鎮静化し、翌24年の4月末、この示威行動は完全に中止された。」(8〜9)

 (注5)九カ国条約(Nine-Power Treaty)「1922年・・・のワシントン会議に出席した9か国、すなわち<米>国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。・・・この条約は、中国に関する条約であり、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を<明記>し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定<(1917年11月2日、・・・<駐米>大使・石井菊次郎と<米>国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された<協定>。・・・<米国>は・・・日本の対華21ヶ条要求に対して「不承認政策」を取っており、日米両国政府の合意は「中国の独立または領土保全」と「中国における門戸開放または商工業に対する機会均等の主義」であった。ただし、ここには「特殊の権利または特典」は除外されていた。そして・・・満州・東部内蒙古に対する日本の・・・特殊・・・利益を<米国>が承認<し>た。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8D%94%E5%AE%9A
)>を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。・・・九カ国条約には、中国に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得た。」
 (以上、<>内を除き、以下による。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84

→赤露の手先たる中国国民党による最初の日・米・英協調/ワシントン・システムへの攻撃は何とか凌いだけれど、赤露は着々と駒を進めていた、ということです。(太田)

 「中国の昂揚するナショナリズムと、東アジアの支配・従属システムとの大規模な激突をもたらしたのは、・・・5.30事件である。・・・
 5月30日、・・・上海の共同租界で学生・労働者の・・・デモに、イギリス管理下の租界警察が発砲、数十人の死傷者を出すという事件が発生し、これを契機に日、英の帝国主義への反対闘争の嵐は急激に高まり、華中、華南を中心に、ボイコット、ストライキ、抗議集会、デモの形で全国的に拡大の形勢を見せていった。とりわけ、6月11日、漢口でのデモ隊にイギリス側が発砲して死傷者をだす事件、さらに6月23日、広東の英仏租界で中国人が百名をこえる死傷者をだすという衝突(沙面事件)を見るにいたり、反帝運動は一層先鋭の様相をおび、とくにイギリスを主目標にすえる性格をもつにいたった。香港では、1年余に及ぶゼネストがはじまり、イギリスの対中貿易は深刻な打撃に見舞われねばならなかった。・・・
 <日本、アメリカ、及びイギリスでは、>中国反帝運動の激しい展開の背後に、ソヴィエトの策動があるとの<見方>が有力であった。」(10〜11)

→国民党政権の初期の支配地において最大の権益を有した英国を狙い撃ちする形で、日・米・英協調体制への攻撃が再開されたわけです。
 注目すべきは、この時点では、日米英3国とも、これが赤露に使嗾された策謀ではないか、という強い疑いを抱いていたことです。
 この疑いは間違いなく正しかったはずであり、冷戦終焉後にアクセス可能となった旧ソ連史料に基づいて、それを裏付ける作業が、日本においてもなされている、と思いたいところです。(太田)

 「1925年1月20日、日ソ両国は基本条約を結んで、国交を回復する。付属議定書では、北樺太での油田の調査試掘権と、開発した油田の59%の利権を、日本にあたえることが明記された。・・・
 アメリカ<の>・・・マイヤー<駐中>代理公使は、日本は「早晩、中ソとのアジア・ブロックに加わる道をとるか、西欧勢力の一員としてとどまる道をとるかの選択に迫られるであろう」(25年7月5日)との・・・観察を下していた。
 一方、・・・香港・・・<英>総督クレメンティは、「日本はロシア同様広東での反英運動に責任をもっている。シンガポールでの海軍基地建設への反撃として香港を麻痺させようというのが日本の狙いであり、中国の内戦を助長して、その継続をはかることは日本の政策に合致する」という呉佩布<(注6)>の観測に同感であると、本国政府に報告してい<る。>」(8、12)

 (注6)呉佩孚のミスプリか。1874〜1939年。北洋軍閥直隷派の首領。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%BD%A9%E5%AD%9A

→嘆かわしいことに、この米国政府の現地役人は、本国の米国人同様、人種主義的偏見でもって日本を見ていたからでしょうが、このような、ありえない懸念も抱いていた、ということでしょうし、この英国政府の現地役人は、恐らく、在支那(在香港を含む)のできそこないの英国人達の強欲と対日人種主義的偏見に接していたためでしょうが、支那の一軍閥の見解などに無条件で首肯してしまった、ということでしょう。(太田)

 「5.30事件に対して、中国政府は6月24日、賠償、陳謝、その他13ヵ条の要求をしるした覚書を列国に提出する。その際不平等条約の改正要求は、別箇の覚書でとくに強調された。・・・<治外法権問題は棚上げのまま、>10月26日から北京関税特別会議<が>開催された<が、>・・・結局翌26年7月初旬、・・・<何等>成果をあげることなく<この会議は>自然消滅した。・・・
 ・・・<日・米・英協調>システムには軍事的機能は本来内蔵されていなかった・・・。利益擁護のために集団で武力を行使するといった≪同盟システム≫とは、異なった理念のもとに、日・米・英協調システムは作られていたのである。したがって、イギリス外交が≪同盟システム≫への変質の方向にその力を作用させ、また日本外交が三国協調から二国間外交に力点を移すとき、ワシントン体制は崩壊への道を、加速度をつけ進みはじめるのである。」(13〜15)

→もともと、東アジアにおける日米英3国の思惑は異なっており、米国は日英に代わって東アジアの覇者たらんとしていたことから、とりわけ、日英と米国との間の思惑の違いは大きく、日英同盟を失効させて日・米・英協調/ワシントン・システムで置き換えるという米国の東アジア戦略に英国が乗ってしまったところに大きな過ちがあったわけであり、このシステムが破綻を来すことは必然であったと言うべきでしょう。(太田)

 「揚子江以南の地を掌握<した>・・・蒋介石を総司令<とする>国民<党の広東政権は、>・・・27年初めには・・・その所在地を武漢に移転し、ここに国民党左派を中心とした武漢政府の成立となる。
 この時期に国民党が指導した反帝闘争は、主目標をイギリスに向けており、たまたま万県事件<(注7)>の発生(26年9月)などもあって、反英感情は新たな高まりを見せていた。かくて、揚子江地域を中心に多年にわたり築きあげたイギリスの既得権が根底から崩される情勢が生れ、さらに、27年1月3日に漢口の英租界が、ついで1月7日、九江<(注8)>の英租界が国民革命郡の手で実力接収され、ついで上海にも内戦の戦火が及ぶ形勢となると、イギリス政府としては、情勢への明確な対応の必要に迫られることとなる。
 そこで、イギリスは一方において、国民党の指導するナショナリズム運動、不平等撤廃の要求にある程度譲歩する宥和戦術をと<る>・・・と同時に、・・・既得権益の一定限度以上の侵害を阻止するためには、≪砲艦外交≫、また≪同盟・協商体制≫といった≪旧型外交≫の復活もあえて辞さないといった強硬面があった・・・。そしてそのさいとくに政治的結託の相手として、重視したのが、かつての同盟国日本であった。」(15〜16)

 (注7)「1926年に・・・四川省万県で発生した事件。1926年、英国の商船が現地の軍閥とのトラブルの末拿捕された。英国側は商船奪還のため砲艦2隻を派遣して砲撃を加え、万県の町を破壊した。 これによって・・・長江一帯の反英運動は終息した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E7%9C%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注8)「江西省北部に位置する・・・(揚子江)沿岸の重要港湾都市」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%B1%9F%E5%B8%82

→ここでも、細谷の言葉遣いには抵抗感を覚えます。
 赤露の手先たる中国国民党によって、支那が英国と締結していた不平等諸条約を、一方的に侵害する行為が繰り返し行われたことに対し、英国が、旧同盟国たる日本と共同対処することで、かかる侵害行為の排除、防止により強力にあたりたいと考えた、と記すべきでした。(太田)

(続く)