太田述正コラム#4496(2011.1.13)
<日露戦争以後の日本外交(その7)>(2011.4.9公開)

 「当時の筆頭元老で韓国統監から枢密院議長に転任していた伊藤博文は、・・・<1909>年5月13日にマクドナルド駐日英国大使がグレー外相に宛てた電報によると、伊藤は、マクドナルドに対して「・・・三年以内に革命が起きるであろう。」と語<っていた。>」(482)

→支那で、1895年に第一次広州起義、1900年に恵州起義、1907年に黄岡起義、第2回恵州起義、安徽起義、欽州起義、鎮南関起義、1908年に欽州、廉州起義、河口起義という、失敗に終わった武装蜂起が起こっていたとはいえ、ぴたりと1912年における武装蜂起の成功という予想を的中させた伊藤の情勢判断能力の高さには舌を巻きます。(その後、1910年の庚戌新軍起義、黄花崗起義(第二次広州起義)を経て、1911年の武昌起義(辛亥革命)が起こって最終的に革命が成就するのが翌1912年。)
 (以上、事実関係は、下掲による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD )(太田)

 「1910(明治43)年当時、イギリスの日英同盟に対する世論は著しく冷却化しつつあった。その理由としては、1907年に英露協商が成立した以上、ロシアを牽制する意味での日英同盟の存在理由が希薄になったこと、韓国併合や満州での日本の行動が在清英国人の反感を買ったこと、そして日露戦争後の日米関係の険悪化に伴って、万一日米戦争が勃発した際には日英同盟規約によりイギリスが日本を援助して対米戦争を行わなければならない場合が想定されることになったことである。」(499)
 「カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等のイギリスの自治領に於いては、移民問題や日米戦争勃発の際の日英同盟の問題のために、排日的傾向はより強かった。実際、カナダの労働移民事務官マッケンジー・キング(Mackenzie King)は、1908年1月ルーズベルトと会見し、カナダの西部即ちブリティシュ・コロンビア州やアルバータ州は日本人の排斥を基本的な政治上の主義にすることを準備しており、もしカナダの中央政府や英帝国が反対すれば、彼等はアメリカの太平洋沿岸の諸州と共に新たに分離、独立した共和国を築くつもりでいることを述べていた。」(499〜500)
 「一方、当時のロンドン『タイムズ』は、「オーストラリア人も、東洋人が徐々に進出することに直面し黄色人種の脅威を感じ、これが彼等の白豪政策に弁明を与え、国防を強調させることになったこと。」、「1905年の日英同盟の改訂は、イギリスは白人の理想に支持を与えることを控えつつあるという誤解をオーストラリア人に与えていたこと。」、「1908年7月、ニュージーランド首相ジョゼフ・フォード(Joseph Ward)は、将来白人と東洋人が雌雄を決しなければならなくなった時、アメリカはオーストラリア人と協力するであろうという考えを表明したこと。」等を報道していた。」(501)
 「一方、日本でも、在清英国人の排日的活動は日本人の対英感情を冷却させ、韓国問題が決着した後は日本がインドを防衛する負担のみが残り不満を抱く日本人も多くなっていた。」(502)

→アングロサクソンに関し、一般人が人種主義から解放されていた度合いは、英国>カナダ中・東部>カナダ西部・豪州・ニュージーランド>東アジア在住英国人>(英国と完全に切れている)米国人、といった感じでしょうか。
 つまり、英帝国内においては、英本国から距離的に離れれば離れるほど、あえて申せば、タチの悪い人間が増えていく、と見ればよいのではないでしょうか。
 日本帝国の一般人にもそのような傾向があったのではないでしょうか。
 このような背景の下、満州や支那本体で、日英在留者間でわだかまりが先鋭化して行った、と私はかねてから考えています。(太田)

 「<このような中、小村<寿太郎(1855〜1911年。外相:1901〜6、1908〜11年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%A3%BD%E5%A4%AA%E9%83%8E (太田)
)>外相は、日英同盟を改訂して満州における日本の特殊権益を条文に盛り込もうとしていたが、1911年>3月31日・・・加藤<高明(1860〜1926年。外相:1900〜1、1906、1913、1914〜15、首相:1924〜26年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E (太田)
駐英大使>は<小村外相に対し、>第一に、イギリス政府が日英同盟の継続を希望する理由を「主として海軍の関係に基く議にて右以外には適切なる利害を感じ居らず」と指摘している様に、イギリスは主としてドイツとの対抗上、英国海軍をヨーロッパや本国水域に集中させることを重視し、それ以外には同盟継続に深い利害を感じていなこと、第二に、イギリス国民については「我国に対し先日の如く一般に且つ熱誠なる好感情を有せず」と結論していたが、それは日本が満州に於いて「満州の利害を壟断」し、日本国内では大逆事件等により野蛮な専制国とみ見做し、この様な日本と同盟を締結するのは「英国の恥辱」と感じる者も少なくないこと、第三に、満州に関する規定を設ければ満州に進出を図ろうとするアメリカ人の感情を害すること、第四に、満州に関する規定は清国に対しても自己を圧迫するものという悪印象を与え、清国に於けるイギリス権益に悪影響を及ぼす恐れがあることを理由として挙げて、イギリス政府は断じて日英同盟条文の中に満州に於ける日本の特殊権益を新たに入れることは同意しないと主張し、逆に同盟継続協議に対して「意外の障害」を生ずることになりかねないとして強く反対したのであった。」(510)

→当時の日本の外務省は、外相経験者たる大使を送り込んでいるくらいですから、恐らくそれ以外も最優秀の外交官を在英大使館に配置していたのでしょう。
 それは当然と言えば当然であったわけですが、恐らくは在米大使館は次等以下の人材の均霑しか受けておらず、それが後々大きく響いてくることになったと考えられます。(太田)

 「<駐日英国大使の>マクドナルドは、1911年4月5日<英外相>グレーに宛てて、・・・1923年の旅順・大連、安奉鉄道の租借期限到来という問題に備えて、日本政府は日英同盟の損座奥を必要とすることを指摘していたのである。小村<外相>は、同年2月2日の衆議院での演説に於いて、日英同盟は「日本外交の骨髄」(marrow)であり、日露協商、日米(高平・ルート)協定によって強化されていることを言明していた。グレーは、同年6月29日にランボルド(Horace Rumbold)駐日英国代理大使に宛てて、「私は安全保障と言う観点から日英同盟を活力有るものに維持して行く重要性を確信している」と述べ、日英同盟の維持を支持していた。」(506)

→アングロサクソン中のアングロサクソンである、英国の指導層は、国際情勢に係る素養において傑出し、かつまた、最も人種主義から自由であったからこそ、日本に対してかくも好意的であったのでしょう。(太田)

 「<結局、>日本政府は、4月5日、日英同盟協約改訂に関<し、>・・・日米戦争の際イギリスは日本のためにアメリカと交戦しないことを閣議決定で認めた・・・<。これは、>当時の日米関係の険悪化等の日本を取り巻く国際環境を考慮に入れれば、日英同盟は実質的には半ば空文化されたのである<ものの、>日本としては、・・・辛うじて国際政治上の地位を保つことが出来たと言える。」(510)
 「この様な経緯の後、遂に7月13日、イギリス外務省に於いてグレー外相と加藤大使との間で第三回日英同盟が調印されたのである。・・・インド・韓国条項<は削除され、イギリスが>仲裁裁判条約を締結した第三国という表現<でアメリカはこの同盟の対象外であることとされた。>・・・
 <すなわち、>極東やアメリカに対する日本の立場が弱められた一方、イギリスの負担が軽くなると同時にアメリカの日本に対する立場が格段に強められたのである。」(517〜518)

→さすがにと言うべきでしょうか、結局のところ、一番うまく立ち回り、得をしたのは英国でした。
 引き続きアジアを日本にまかせ、本国近くでドイツに対処することに専念できたからです。
 (ドイツは、太平洋で南洋諸島とニューギニア島の一部を植民地にしており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%AB%B8%E5%B3%B6
支那では膠州湾を租借していた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B3%B6%E5%B8%82 )
 実際、第一次世界大戦において、日英同盟のおかげで、英国は後顧の憂いなく、戦いを有利に進めることができたのです。(太田)

 「日英同盟の再改訂は、日米両国間の摩擦を緩和あるいは衝突を回避させる存在が消滅したことを意味し、ドイツの『ディエ・ポスト』紙が「米国極東攻略漸々自由なるに至りたるは戦争の危険を増したるものと云うべし」と分析していた様に、その後日米両国は満州や太平洋をめぐって激しく対立し、遂には太平洋戦争の破局へと突き進むことになったのである。」(521)

→さすがに1911年時点ではともかく、1923年の日英同盟失効の時点において、まさにこのような予想の下、外務省は米国との戦争を避けるべく、対米工作に省を挙げて全力で取り組み始めていてしかるべきだったのです。
 それを怠った外務省、いや、そのように外務省を指導することができる体制作りを怠ったところの、大正末期以降の歴代内閣の懈怠は、厳しく咎められなければなりますまい。

(完)