太田述正コラム#4488(2011.1.9)
<日露戦争以後の日本外交(その3)>(2011.4.5公開)

 「ルーズベルトは、・・・1889年2月14日、アメリカ保護関税同盟会長のチャールズ・ムーア(Charles Arthur Moore)に対して「ヨーロッパ列強の中でロシアが、いやロシアだけが、過去に於いていつも変わりなく我々に友好的であった。ただこの友好が自己の利益からのみ生まれたのは間違いないが。」と述べていた。」(130)

→最後の一文はさておき、びっくりするようなロシア評価をローズベルトは口にしたことがあるわけです。
 しかし、以下、明らかになって行きますが、ローズベルトにとって、彼自身が考えるところの、その時その時の米国の短期的国益がすべてであって、それに照らして得であるか損であるかによって、他国についての評価はいかようにも変化する、ということなのです。(太田)

 「一方、日本については、1893年ハワイで革命が起きアメリカがハワイを併合しようとする際、日本政府が軍艦を派遣し、大隈重信外相、星亨駐米公使が激しい抗議を行った経緯もあり、1897年ルーズベルトは当時のマッキンレー(W. Mckinley)大統領に日本の海軍力に比較してアメリカ海軍力の脆弱性を警告していた。・・・
 しかし、・・・日本がアメリカによるハワイ併合を承認したこと<等>を主な契機として、・・・ルーズベルトはロシアの専制主義や満州占領の侵略に対して強い反感を抱<くに至り、>マイヤー駐露米国大使に対して・・・<1905>年2月6日に「・・・ロシア政府は全ての悪、最も不誠実なるもの、最も無思慮なもの、最も反動的なものを代表するものである」・・・と述べている・・・。」(131〜132)
 「<彼は、>訪米中の金子堅太郎に向かっても直接に、<1904>年3月29日に「露国の如き専制君主国に在ては共通的同情を発見する能はざるなり…・・・」と<述べている。>」(133)

→この、ロシアの専制主義への批判についても、ローズベルトは、当時のロシアの対外政策が、その時の米国の短期的国益に背馳していたことから、ロシアを非難、牽制するために、あえて打ち出した、と考えるべきでしょう。(太田)

 「<1905>年6月19日に・・・宣教師シュネーダー(David Bowman Schneder)に宛てた書簡<でルーズベルトは、>「・・・2000年前に遡れば、ギリシャやローマにとって最も恐ろしくある意味では最も軽蔑すべき野蛮人は、白い皮膚をした青い目で赤あるいは黄色の髪の北方野蛮人--彼等から我々の大部分は血を受け継いでいる--であることがわかるのである。当時のギリシャ人やローマ人にとっては、この北方野蛮人が文明世界の一員になるとは到底信じられなかったであろう。・・・もし私が皮膚の色が違うからという理由で日本の陸海軍将校、政治家、慈善家、芸術家を差別するならば、恥じ入らねばならない。」<と書いている。>」(135)

→ローズベルトが、フェノロサ(E. F. Fenollosa)の話を聞いたり新渡戸稲造の『武士道』、英訳の忠臣蔵(斎藤修一郎訳『四十七浪人』)を読んだりしたことを通して、(アングロサクソンによく似ていて自由民主主義的でもある)日本に感銘を受けた(134〜135)、というのは嘘ではないのでしょうが、このように、日本への敬意の念を盛んに表明したのは、そうすることによって、その時の米国の短期的国益に資する対外政策をとっていた日本を誉め殺してより米国にとって都合良い形で利用しよう、という、冷徹にしてしたたかな計算に基づくものでしょう。(太田)

 「しかし、この様なルーズベルトの親日反露的な態度は、日露戦争に於ける日本軍の意外な優勢的戦況の展開を通して徐々に変化し、アジアでの日本の存在を脅威として感じ始め、・・・むしろ日本とロシアが対峙しお互いに国力を消耗し尽くした状態での「日露均衡政策」を考え始めたのであった。」(136)

→もう十分お分かりになったことと思いますが、ローズベルトが、ロシアの専制主義を嫌い、自由民主主義的な日本に親近感を覚えていた、ということは事実だとしても、そんなことへの配慮など、彼が考えるところの、その時その時の米国の短期的国益の前には、簡単に吹き飛んでしまう、ということです。
 他方、当時の英国の場合は、彼等が考える長期的国益の中に、自由民主主義の擁護も含まれており、そのため、短期的国益の観点から対露姿勢や対日姿勢を変化させるようなことはないのであって、だからこそ、英国は、1902年に日英同盟を締結し、それを20年以上にわたって堅持したのです。
 当時の(、そして今でもと言いたいところですが、)純正アングロサクソンの英国とできそこないのアングロサクソンの(ローズベルトらの)米国との違いは明らかでしょう。(太田)

 「<ちなみに、>1904、5年頃には、アメリカの商業界は、日本の経済政策に関して次の様な2つのグループに分かれていた。第一の多数派グループは・・・親日的であった。彼等は米亜協会を組織し、「アジア、全世界の真の危険はロシア人であり、黄禍ではない」という信念を抱いていた。・・・第二の少数派グループは,日本とアメリカを自然の競争者と見做していた。・・・著名な製造業者や他に鉱業専門家、銀行家等がこのグループに属していた。」(229)

→経済界は全球的視点を持たざるをえないことから、米国の経済界は、一般国民よりも、そして恐らくはローズベルト等の政治家よりも、おおむねいつの時代でも「開明的」である、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)