太田述正コラム#4484(2011.1.7)
<日露戦争以後の日本外交(その1)>(2011.4.3公開)

1 始めに

 本シリーズは、XXXXサン提供の寺本康俊『日露戦争以後の日本外交--パワー・ポリティクスの中の満韓国問題--』(信山社 1999年)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/31-6/jityo2.html
の抜粋からの抜粋に私のコメントを付すものです。
 なお、著者の寺本は、1953年広島生まれの広島大学法学部教授(外交史)です。

2 日露戦争以後の日本外交

 「日本政府は・・・<日露戦争中の1905年>4月8日に・・・「・・・帝国は須らく此際一歩を進めて韓国に対する保護権を確立し該国の対外関係を挙げて我の掌裡に収めざるべからず…之が実行に関しては深く列国の態度如何を顧み可成丈ヶ外間の故障を招かざるの手段を講じたる上適当の時機に於て之を断行すること得策なりと思考す」・・・<という>閣議決定<を行った。>・・・
 ところが、第一回日英同盟<(the Anglo-Japanese Alliance)>はその前文に於いて韓国の独立と領土保全を謳っており、日本が韓国を保護国化するためにはこの問題を解決しなければならなかった。」(92)

→日本は韓国の保護国化を目指して日露戦争を戦っていたわけです。(太田)

 「日露開戦前に於けるイギリス政府の見解は概して日本の戦力に悲観的であった。しかし、・・・日本軍が<1905年1月1日に>旅順を後略した頃から、イギリスの見解は次第に複雑な変化を見せて来た。即ち、・・・敗北<した暁の>・・・ロシアは国内の再建のための一時的な休息の後に再度アジアに於いてもはや清国ではなくてインドに向かって南下運動を開始するかもしれないこと、更にドイツがロシアの一時的な無能力を利用してイギリスも戦争に巻き込まれる恐れのある独仏戦争を惹き起こす可能性があった<からだ。>・・・
 <幸い、1904年2月に日露戦争が始まった直後の4月に>英仏協商<が締結され、英仏間の敵対関係が解消されていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 (太田)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%BB%8F%E5%8D%94%E5%95%86 (太田)
ので、独仏戦争に比べて>・・・イギリス<がより警戒すべきは、イギリスの伝統的な>最大の恐怖の対象であったロシア<の>・・・インドへの侵略<とあいなっ>たのである。
 こうして、インド防衛のためには日英同盟の継続はイギリスにとって非常に大きな戦略的価値を有するものになって来たのである。そうすれば、日英の協力により日露戦争後のロシアの南下運動に対抗でき、それに加えて日本がウラジオストックに脅威を与えることにより中央アジアに於けるロシアの圧力を軽減し、しかも日本海軍がドイツの商業船襲撃から太平洋に於けるイギリス海運業を保護し得るが故に、イギリスは艦隊を本国水域に終結させることを一層可能にするものであったのである。」(94〜95)

→英国にとっては、ロシアが仮想敵の第一、ドイツが第二であったということです。
 その英国は、日露戦争の進捗状況から、当分の間、ロシアが極東で南下する可能性はなくなりそうなので、ロシアのインド洋への南下に日本の力を借りて備え、自らは本国付近でドイツの脅威に対峙することを目論んだわけです。
 第二次世界大戦後、とりわけ第二次冷戦期において、米国が、米日優位の極東でロシア(ソ連)に圧力をかけ、ロシアのインド洋や西欧への侵攻に備えたことと比較するのも一興でしょう。(太田)

 「イギリスでは、日英同盟の締結の際には何を好んで極東の後進国と同盟を結び無用の負担を負うのかという反論が絶無ではなかったが、今回は日露開戦後の日本の連戦連勝によってイギリスの朝野をあげて日英同盟の一層の強化、範囲の拡張を唱える気運となったのである。」(96)
 「<1905年>7月15日にマクドナルド<駐日イギリス公子>がランズダウン<イギリス外相>に・・・「新<日英>同盟は取引という性格(the nature of a bargain)を帯びている。それは戦争の結果日本が韓国に確立する保護関係を我々が黙認する代わりに、我がインド帝国が第三国によって攻撃された場合日本が我々を援助することを約束するのである。」と述べている様に、韓国とインドは「取引」(bargain)されたのである。」(102)
 「<更に、>第一次<日英同盟>と異なり、締約国の一方が他国から攻撃を受ける時には他の締約国は直ち共同戦闘にあたる義務が設けられた。こうして日英関係は緊密化され、外交面で「帝国外交の骨髄」とされ・・・たのである。・・・
 封じ込められたロシアは極東やインド方面での南下を諦め、二年後には日露協商、英ロ協商を結ぶことになるのである。」(107)

→つまり、英国は、1902年1月30日に締結された第一次日英同盟に代わり、1905年8月12日に第二次日英同盟を締結することによって、締結国が他の1国と交戦した場合は中立義務、2国以上との交戦となった場合には参戦義務を規定していた第一次同盟を、1国と交戦した場合にも参戦義務を規定して、これを名実とも攻守同盟化させるとともに、第一次同盟で認めていなかったところの日本による韓国の保護国化を認める見返りに、英国のインドにおける利益を日本に認めさせ(インド独立運動への日本の支援を禁じ)ることで第一次同盟より対象地域を拡大し、日本をしてインド防衛のために共同対処することを約束させた、ということです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Alliance
 ちなみに、日露戦争の休戦は9月1日、終戦は10月14日です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 前掲
 その結果、ロシアは完全に封じ込められたわけです。(太田)

 「<他方、1905年>9月・・・独帝<ヴィルヘルム2世>は・・・自らの黄禍論にもとづいてイギリスに対する激しい不信を示し対英戦争も近いであろうことを述べ、「イギリスは日英同盟を締結したが故に、白人に対する裏切り者である。」と、不信をあらわにしていた。」(108〜109)
 「<また、セオドア・>ルーズベルトが親日的態度を示した日露戦争の終結後、アメリカの対日世論は移民問題や満州の門戸開放をめぐって急転回したのである。とりわけ、アメリカの世論は・・・日英同盟に対して反感を抱き始めた。1907年秋の米国艦隊の世界周航に見られた様に、アメリカが日本に対する敵意を公けにするようにな<った>。」(110)

→ドイツは、エリートが(、そして恐らくは一般国民も、)日本人を含む非白人を差別視する人種主義者であったのに対し、米国は、エリートは、(少なくとも当面、)日本人を名誉白人扱いすることが米国の国益に資すると考えていたけれど、一般国民の大半は、無条件で日本人を含む非白人を差別視する人種主義者であったということです。
 両国とも、エリートも一般国民も人種主義とは基本的に無縁であったらしい英国とは対照的ですね。(太田)

(続く)