太田述正コラム#4466(2010.12.29)
<戦間期米国人の東アジア論(その3)>(2011.4.2公開)

5 ジョージ・ブレイクスリー(論文:1933年)

 (1)紹介

 ジョージ・H・ブレイクスリー(George H. Blakeslee。1871〜1954年)は、ハーバード大学で修士号と博士号を取得し、その後クラーク大学で歴史学部講師となり、やがて「フォーリン・アフェアーズ」編集顧問となり、1921年〜46年の国務省勤務の間に、1922年のワシントン会議に参加し、1932年のリットン調査団にアメリカ代表顧問として随行し、その後、対日占領政策の立案に携わりました。
 彼は、排日移民法など日本に対する米国の人種差別的思索については米国の非を認め、その是正を主張する一方で、日本の支那における軍事行動を糾弾し、満州事変に際しても対日経済制裁を主張した人物です。
(132〜133、及び
http://encyclopedia2.thefreedictionary.com/Blakeslee,+George+H. )

 (2)論文

 「日本政府は、・・・<いわゆる>日本版モンロー宣言を公式に表明している。「極東における平和と秩序の維持に日本は責任がある」。これは1933年2月21日に日本代表団が国際連盟総会で発表した声明である。さらに日本の外務大臣、内田康哉伯爵は1月21日の帝国議会での演説において、連盟規約の21条<を引用しつつ、>・・・次のように述べた。「連盟規約中に地方的了解の尊重を規定して居ることの賢明なるを認むると共に東洋においては帝国の建設的勢力が其方面の平和を現実に維持するための支柱なることを認識する」。・・・石井菊次郎子爵は、・・・最近刊行された回顧録で、・・・次のように書いている。「我国の見地よりすれば日本は支那全般に於て殊に接壌したる利益を有し居ること猶ほ貴国が西半球殊に墨西哥及中米諸国に於けると同様なり」。(119〜120)
 「石井子爵は「フォーリン・アフェアーズ」誌へ寄稿した論文の中で次のように記している。「一般的に言って、中国における我国の政策は、強力な第三国や国家連合による中国内での国家内国家の建設が中国の領土保全を脅かすだけでなく、日本の安全保障とも相容れないという信念に基づくものであり、この点において、我々は、(アメリカの)モンロー宣言に組み込まれたのと同じ原則に基づいて行動してきた」。・・・
 <実際、>日本は二つの戦争を通じて、ロシアを南満州から追放し、ドイツを山東半島から追い出した。1915年には「今後、中国沿岸のいかなる港、湾、島も諸外国に対しても割譲されないし、租借されることもない」という宣言を中国政府から引き出した。」(121)

→日本が、米国のモンロー宣言に準えて日本の東アジア政策を説明していたこと、そして、その中核的趣旨は欧米列強の支那介入の排除にあったところ、実際に日本によって介入排除の対象となった列強は、そのどちらも専制的であったところの、ロシアとドイツであったこと、をブレイクスリー自身が認めているわけです。(太田)

 「1917年の石井=ランシング協定において、・・・次のような文言が最終的に盛り込まれることになった。「日本国政府及合衆国両政府は領土相近接する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認す。従て合衆国政府は日本国が支那に於て特殊の利益を有することを承認す。日本の所領に接壌せる地方に於て殊に然りとす」。しかしながら・・・ランシング長官は、この表現は、地理的な近隣性ゆえに日本が中国において享受している商業的・産業的利点を特に指しており、それらの文言に政治的重要性はないと理解していた。しかし、石井子爵は、それらの特殊利益は「殊更政治的である」と主張している。最近出版された回顧録の中で石井子爵は、協定を通じて、日本は欧米諸国に比べてより重い責任と自己主張をめぐるより大きな権限を持つことを認められたと述べている。」(122)
 「極東で日本がリーダーシップを発揮する権利も、日本版モンロー宣言に含まれると解釈されている。・・・その主張は、ウィリアム・キャッスル駐日大使<(注2)>による日本の立場に好意的な東京での演説の後、1930年に特に強調されるようになった感がある。大使は、東アジアにおいて平和を維持するという日本の意図を、西半球において平和を維持しようというアメリカの意図と比較したのだ。」(124)

→かかる日本の東アジア政策に、米国政府が、累次にわたってお墨付きを与えてきたことについても、ブレイクスリー自身が認めているわけです。(太田)

 (注2)1929年12月、フーバー大統領は、ロンドン海軍軍縮会議で日本との交渉を進めるため、国務次官補のキャッスルを駐日大使に任命した。キャッスルはおよそ5ヶ月にわたって東京に滞在し、日本の合意締結に大きく寄与した。帰国後、キャッスルは、国務次官補に復帰し、やがて国務次官となり、フーヴァーの任期満了まで次官を務めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%AB (太田)

 「日本人の過半数が明らかに望んでいる拡大策とは、日本の主権の範囲を広げることなく、経済的、政治的支配を拡大させることである。・・・<ただし、>日本は、中国が同意を与えようが与えまいが、中国、特に満州の天然資源の開発と使用の権利を主張しているのだ。この主張は、松岡洋右の言葉を借りれば、「どこかに出口を見つけざるを得ない国家の正当な権利」に基づいている。・・・日米関係の<専門家>である東京帝国大学の高木八尺博士も、・・・日本と満州を結びつける経済ブロックという考えは、「『日本版モンロー宣言』にとって必要不可欠なものである」・・・<と>書いている・・・。現陸軍大臣で、<皇道派の>知的指導者でもある荒木貞夫大将は、最近次のように述べた。「『人類は地球上で生きる権利がある』のだから、豊かな資源に恵まれたいかなる国といえども、人口過剰で天然資源が不十分な国にそれらの資源を提供することを拒否する権利はない」」(125)

→ここの記述からしても、日本が米国とは違って資源小国であり、また国内市場も米国よりはるかに小さいことから、日本は外国において資源と販路を確保しなければならないのに、大恐慌の下、米国を含む欧米諸国が経済ブロックをつくり日本を排除している以上、日本が資源と販路を満州、支那に求めざるをえない、ということにブレイクスリーが気付いていなかったはずはありません。
 先の大戦後、米国が、ブレトン・ウッズ体制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%82%BA%E5%8D%94%E5%AE%9A
の下、経済ブロック化を排除する政策を、遅ればせながら、全球的に展開したことを想起しましょう。(太田)

 「日本版モンロー宣言と<アメリカのラテンアメリカ全域に対するモンロー宣言と区別されるところの>アメリカのカリブ海政策には似ているところもあれば、違っているところもある。・・・類似点は次のようなものだ。日本もアメリカも強国で、その近隣には政治組織と軍事力が弱く頻繁に内戦にさいなまれている国々がある。周辺諸国が本質的に農業国であるのに比べて、両国とも資本主義国で産業化が進んでいる。ともに,高度の行政力と組織力を持ち、重要な戦略利益かつ商業的国益を有する地域を近隣に持っている。たとえば、アメリカの場合其れはパナマ海峡で、日本の場合は南満州鉄道である。ともに巨額の投資をしている。・・・
 日本人は次のように主張している。「朝鮮や満州、華北での軍事行動は、アメリカのカリブ海地域での軍事行動と同じもので、セオドア・ローズベルト大統領の言う『警察力ドクトリン』を中国で適用しているだけである。満州における中国人政府を転覆させることで日本は近隣地域の厄介事を減らしているのであり、それはアメリカがキューバにおけるスペイン政府を転覆したのと同じことだ。満州国の独立の承認にしても、アメリカのパナマ承認の例に倣ったまでである。満州における日本の行動のすべては、メキシコ、ニカラグア、ハイチ、ドミニカ共和国へ軍事介入したアメリカのカリブ海地域政策と同一路線上にある」
 ・・・<しかし、>決定的相違点もみられる。・・・アメリカは、広大な土地と多くの人口を抱える一方で、10ほどのカリブ諸国はどれも比較的小さく人口も少ない。それに対して、広大な土地と多くの人口を抱える中国に対して、日本は比較的小さく人口も少ない。・・・
 <また、>生存の権利、生命線、経済的拡張といったドクトリンはアメリカの政策にはなく、日本だけのものである。」(126〜128)

→米国が日本にお墨付きを与えてきたのはモンロー宣言のアジア版ではなく、カリブ海地域だけを対象とする米国の政策のアジア版である、とブレイクスリーは一人で勝手に言い出しているわけですが、とんでもない話です。
 また、後述するように、モンロー宣言にはもともと「生存の権利、生命線」というか、山県有朋の言う主権線、利益線(コラム#4406)的な安全保障的含意がありますし、「経済的拡張」については、上述したところと、後述するところを参照のこと。
 いずれにせよ、米国にとってのラテンアメリカ、就中カリブ海地域の安全保障上の重要性と日本にとっての東アジア、就中満州・内蒙古の安全保障上の重要性とでは、第三国たる列強からの距離の遠近といい、その念頭にある主たる列強の違い(方や西欧諸国、方や赤露)といい、圧倒的に後者の方が大きいことにブレイクスリーは意図的に目をつぶっている、と言わざるをえません。(太田)

 「アジアに対して日本版モンロー宣言を作るよう1905年に金子堅太郎子爵に提案したのはセオドア・ルーズベルト大統領であった。しかし、大統領が念頭においていたのは単にヨーロッパの侵略からの東洋の保護であった。「領土の隣接により、日本と右地方(南満州及び東蒙古)間に、特殊の関係の存すること」を1915年にウィリアム・ジェニングス・ブライアン国務長官は公式に認め、ランシング国務長官も1917年に「日本国か支那に於て特殊の利益を有することを承認す。日本の所領に接壌せる地方に於て然りとす」としている。キャッスル大使は1930年に「日本は太平洋の平和の保護者でなくてはならないし、またそうなるだろう」と述べた。それ・・・<ら>は、あくまで、その宣言が攻撃的目的に使われないという前提に基づいていた。」(130〜131)

→ブレイクスリーが言うセオドア・ローズベルト大統領の真意は、その真意の歪曲以外の何物でもありません。。
 モンロー宣言は、1823年にモンロー米大統領によって発せられたものであり、英国の示唆に基づき、欧州諸国が南北アメリカ大陸諸国について、新たに植民地にしたり、内政干渉したりすることを侵略行為とみなし、米国の軍事介入の対象とする、という内容でした。
 すなわち、最初から、モンロー宣言には明確に安全保障的含意があったわけです。
 また、ガーフィールド(James A. Garfield)米大統領の下で1881年に、そしてハリソン(Benjamin Harrison)米大統領の下で1889年から92年にかけて、国務長官を務めたジェームス・G・ブレイン(James G. Blaine)によって、1880年代において、モンロー宣言に経済的含意が加えられ、ラテンアメリカ諸国を米国の下に糾合し、これら諸国の市場を米国の交易者達に開放することが謳われます。(これは「姉御(Big Sister)」政策と称されています。)
 すなわち、この時点で、モンロー宣言は拡張され、経済的含意が加わったのです。
 それどころではありません。
 1895年には、クリーヴランド(Grover Cleveland)米大統領の下の国務長官リチャード・オルネイ(Richard Olney)が、英国に対し、「米国は事実上南北アメリカ大陸における主権者であり、米国の命令(fiat)は、それが対象とするところの事柄に対する法である。(The United States is practically sovereign on this continent, and its fiat is law upon the subjects to which it confines its interposition.)」という通牒を送り、英国がそれに異を唱えなかったことで、英国は、米国によるモンロー宣言のこの新しい定義を暗黙裏に受け入れて、米国の西半球における覇権を受け入れ、モンロー宣言は、米国がラテンアメリカの覇権国であるという意味へと拡張されます。
 更に、セオドア・ローズベルト米大統領は、1904年に、モンロー宣言に基づき、「ラテンアメリカ諸国による、目に余り、かつ慢性的な悪行」に対して米国は軍事介入する権利を持つ、と主張しました。
 ここに至って、モンロー宣言は、ラテンアメリカの覇権国米国が、ラテンアメリカで警察官役を担うという意味にまで拡張したのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Monroe_Doctrine
 そのローズベルト大統領が、日本に対して東アジアにおいてモンロー宣言的なものを発するように促した、ということは、日本に対し、東アジアの覇権国となって東アジアで警察官役を担うことを促した、と日本指導層が受け取ったのは当然であったと言うべきでしょう。(太田)

6 終わりに

 以上、登場した、スティムソン以外の3人については、もはやこれ以上何も語りたくありません。
 のうのうと戦後を生き、天寿を全うした鉄面皮な彼らに対し、東アジアの全ての人々に成り代わって、私は、満腔の怒りと侮蔑を投げかけたいと思います。
 
(完)