太田述正コラム#4444(2010.12.18)
<ハセガワとベーカーの本(その7)>(2011.3.27公開)

 (表記のシリーズ、コラム#2675(2008.7.18)の「その6」までで中断していたところ、MSさんから続けて欲しいとの要望があり、再開することにしました。
 コラムの書き方、というか体裁が変わってしまったけれど、あしからず。(太田))

 「<モロトフが対日宣戦布告を佐藤駐ソ大使に伝えた際、>ソ連は、連合国がソ連政府にポツダム宣言に加わるよう求めたと主張したが、それは厚かましい嘘だった。」(PP191)
 「<そのこともあったが、中国政府との合意なくして参戦しないとスターリンがトルーマンに約束していたのに、この合意なくしてソ連が対日参戦したことに、トルーマンは<特に>裏切られた思いがした。>
 トルーマンは、日本を降伏へと追い込む競争においてソ連に勝とうとしていた。
 彼は、切り札である原爆を使うことができたけれど、にもかかわらず、ソ連はこのゲームに加わってきたのだ。」(PP193)
 「ニューヨークタイムスは、「米軍部その他米政権部内では、広島で示された原爆の恐るべき効果が、ロシアの参戦を早めたことに疑いの余地はないと認識されていた。」とし、それに続けて、「この時点でのロシアの宣戦は、トルーマン大統領以下、米国政府にとっては驚きだった。」と報じた。」(PP194)
 「2番目の原爆を投下するとの決定は、7月25日になされていたが、ソ連の参戦によって、この予定を変更すべきであると考えた者は<、米政府内に>誰もいなかった。」(PP194)

→この時点で、冷戦は、事実上既に始まっていたのです。(太田)

 「<しかし、>広島への原爆投下ではなく、ソ連の攻撃こそが、<日本の>政治的指導者達をして、ポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせなければならないと確信させたのだ。」(PP198〜199)

→ハセガワは、以下、この主張の証拠を列挙していきます。(太田)

 「陸軍の上層部と関東軍においては、ソ連の攻撃の可能性はあるけれど、それは起こらないだろうという希望的観測が支配的だった。」(PP199)
 「<参謀次長の>河辺<虎四郎(1890〜1960年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8%99%8E%E5%9B%9B%E9%83%8E (太田)
)>は、<広島への原爆投下を知った>8月7日には「ひどい刺激を受けた」と<日記に>記<すにとどまったのに、>・・・<ソ連軍の侵攻を知った>8月9日には・・・「ソ連はついに立ち上がった!」<と感嘆符をつけて日記に記している。希望的観測が完全に裏切られたわけだ。>」(PP200)

→これが第一の証拠だというわけです。(太田)

 「8月9日に・・・長崎に2番目の原爆が投下され<た。>」(PP201)

 「最高戦争指導会議<で、日本政府及び軍部の>6首脳が、ポツダム宣言をどうすべきか、白熱した議論を行っている最中に<このニュースが入った。しかし、>長崎への原爆投下は、ほとんど議論の中身に影響を及ぼさなかった。」(PP204)
 「<陸軍は、捕虜の尋問を通じて、次の原爆投下の対象は東京かもしれない、米国がまだ100個の原爆を保有している可能性がある、という情報<(注1)>を得、これを閣議で開陳したが、>このニュースに閣僚達はさして関心を示さなかった。」(PP208)

 (注1)米国は、長崎の次にどの都市を原爆投下の対象にするか決めていないかったばかりか、そもそも、引き続き原爆を広島、長崎で行ったように戦略目的で使うのか、日本侵攻作戦を実施する際に戦術目的で使うのかさえ決めていなかったので、東京云々という話は全く根拠がないし、次の原爆は8月第3週に投下可能だったが、その次は9月に3個、10月に3個投下できたにとどまるので、100個の原爆というのも全くのデタラメである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki
 大事なことは、これほど途方もない話を聞かされた閣僚達が、少しも動じた様子がなかったことだ。(太田)

→これが第二の証拠だというわけです。
 ここで、原爆投下とソ連の参戦を、当時の米国政府側がどう受け止めたかにハセガワは触れています。(太田)

 「<米国時間の>8月10日の閣議の際、トルーマンは、彼の許可無くして更なる原爆投下をしないよう命じた。「トルーマンは、もう一度100,000人の人々を一掃することを考えることは身の毛がよだつと語った。彼は、「子供達をみんな」殺すという観念を好まなかったのだ。」(PP202)

→原爆投下にもかかわらずソ連が早くも参戦した上、原爆の非人道性を数字でもって突きつけられたのですから、トルーマンはダブルパンチを食らったような思いであったことでしょう。
 さて、証明は続きます。(太田)

 「<8月9日の御前会議でポツダム宣言を基本的に受諾する聖断が下りる(注2)。>」(PP213)

 (注2)降伏条件で政府・軍部首脳は議論がまとまらなかったが、8月9日、御前会議が始まる前、天皇は木戸内大臣に、「早急に事態を収束させよ…ソ連が日本に宣戦布告したからだ」と命じた、という『木戸幸一日記』(1966年)(1223p)の記述(ウィキペディア上掲)を、どうしてハセガワが引用していないのか、不思議だ。

 「<8月13日、<海相の>米内は、・・・「<2度の>原爆投下とソ連の参戦は、ある意味で、天の配剤だ。・・・終戦を私がこれまでずっと推奨してきたのは、…国内情勢への心配からだ。だから、我々が、国内情勢を俎上に載せることなく戦争を終えることができるのはむしろ幸運なことだ」と語っている。・・・
 <同じく、首相の>鈴木は、<阿南陸相から御前会議開催を2日延期して欲しいとの申し入れを拒絶した、阿南が退去した後、第三者から、どうして延期できないのかと問われた際、>「それはできない。本日を逃せば、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく北海道もとるだろう。我々は米国と交渉できるうちに戦争を終えなければならないのだ」と答えている。」(232、237)
 「<同日、国体に係る質問に対する米国政府からの回答を踏まえて、再度御前会議が開かれ、再び政断が下って、日本は降伏を決定する。>」(240)

→これが第三の証拠だというわけです。
 私としては、注2で引用した昭和天皇の言を、第四の証拠である、と言いたいところです。(太田)

(続く)