太田述正コラム#4432(2010.12.12)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その9)>(2011.3.18公開)

 「1898年6月30日、アギナルド大統領は、フィリピン独立(nationhood)の終わりの始めを劃することとなる戦略的過ちを犯した。
 彼は、2,500人の武装した米国人兵士達が<フィリピンに>上陸してスペインとの戦争を遂行することを認めたのだ。」(92)

→この時に、アギナルドは、前出の「憲法を注意深く勉強した」云々発言を行ったのです。(太田)

 「<その時点では、首都マニラを除く全フィリピンを支配下においていたアギナルド政府であったところ、マニラ攻撃に米軍の力を借りようとしたわけだが、米軍はスペイン軍との裏取引を行った上で、>8月13日、米国人達とスペイン人達はマニラをめぐるインチキ戦闘を「戦った」。
 フィリピン人部隊は彼らの米陸軍同盟軍とともに戦おうとしたが、米国人達はマニラの厚い城壁を白人部隊以外が通過することを妨げるために、彼らに向かって撃ちかけた。」 <こうして、フィリピンをめぐるスペインとの戦いは終わった。>(94)

→NATOのような多国間同盟機構に加盟する場合と違って、特定の外国との間で自国の安全保障のために軍事力行使をしてもらうような取り決めをすることがいかに危険か、しかも、その外国が米国であった場合には危険は更に高まる、ということが、このことからよく分かりますね。(太田)

 {<マーク・トウェイン(コラム#3058、4363、4414)やアンドリュー・カーネギー(コラム#1581、1575、1776)は、>異邦人を植民地の臣民として持つという伝統は米国にそれまではなかった<といった趣旨のことを書き始めた。・・・
 <しかし、>当時の白人の米国人の間では、<北米の>インディアン<の地>に拡大していくことは疑問の余地のない権利であるというほとんど堅固なコンセンサスが存在していた。
 白人の米国人は、一般に彼らの過去が犯罪的であるとは信じず、彼らのフィリピンでの行動の正しさを受け入れていた。
 それに疑問を抱くことは自分達の国の歴史全てを貶めることになりかねなかっただろう。・・・
 フィリピン人達を統治することは、新しい政策の兆しではなく、長く追求されてきたところの政策の拡大に外ならない<、というわけだ。>」(97〜98)

 「<やがて、アギナルド軍と米軍との戦いが本格化する。いわゆる米比戦争の始まりである。>
 <他方、1999年の>2月6日に、米上院は、必要とされる3分の2をわずか1票上回る形で<スペインがフィリピンを米国に2000万ドルで売却する条項を含むところの、1898年12月10日に調印されていた>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89 (太田)
パリ条約を批准し、ここに米西戦争は<正式に>終わった。」(102〜103)

 「<1900年に>3代目のフィリピン軍事総督となったアーサー・マッカーサー(Arthur MacArtjur<。1845〜1912年。総督就任の翌年、将来の大統領のタフトが文民総督に任命されると衝突し退任する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_MacArthur,_Jr. (太田)
>)将軍は・・・米国人達がアーリア人の子孫であることに言及し、・・・<その子孫はどんどん西進し、>今や、<太平洋をまたいでフィリピンに至り、>ほとんどその人種の揺り籠<の地であるアジアの内陸>に戻りつつある<、と述べた。>」(104〜105)

→テュートン(アーリア)人を中核とする国が米国である、という人種主義に基づく帝国主義イデオロギーが当時の米国人一般に浸透していたことがうかがえます。(太田)

 「<米軍が特に悪名高い水責めを含むありとあらゆる拷問をフィリピン抵抗分子に対して行う等残虐行為を繰り返していることが報道され、さすがに米本国では批判の声も高まったが、(当時副大統領で翌年マッキンレーの暗殺に伴って大統領に昇格する)ローズベルトは、演説を行い、以下のように語った。>
 我々は、ハワイ、キューバ、プエルトリコ、そしてフィリピン…で我々が直面している責任を回避することはできない。
 ・・・フィリピンを統治する任務を執り行うことを・・・その経費と難儀さ故に尻込みする者には、私は全く我慢が出来ない。
 人道主義に藉口して自分自身の臆病さを隠して覆おうとする者や、「自由」とか「被治者の同意<が必要である>」とか唱えて男としての役割を演じる意思を放擲する者にはもっと我慢が出来ない。
 彼らの教義が実行に移されるということは、それはアリゾナ州をアパッチ族に委ねて自分達で救済を得さしめたり、インディアン特別保留地(reservation)には一切介入しない、ということ意味するからだ。」(109〜110)

→ローズベルトは、ここで急遽、新理論をでっちあげた、という感があります。
 すなわち、フィリピン全体を、米国本体から隔離されたインディアン特別保留地とみなし、(デュートン(アーリア)人が主導する)米国政府をその管理者とみなす、という「理論」です。
 もとより、こんな、(英国や欧州諸国のそれとは違って)出費が嵩むだけで、(日本のそれとも違って)安全保障にもほとんど寄与しないところの、傲慢な金持ちの道楽的な植民主義を正当化しようとする「理論」には著しく無理があるのであり、爾後、この新理論が、米国によって、その領土拡大のために援用されることは、2度となかったことを我々は知っています。
 しかし、米国は、引き続き東アジアで、領土拡大のためでこそなかったけれど、傲慢な金持ちの道楽的な人種主義的帝国主義的介入は続けるのであって、その結果、日本帝国は瓦解させてられ、支那、北朝鮮、インドシナは共産化してしまうわけです。(太田)

 「米国の南北戦争や他の紛争では、<戦闘員の負傷者と死者との>比率は、5対1だった。
 しかし、フィリピンでの・・・1899年2月から7月の<戦闘においては、その>比率は・・・1対4だった。・・・
 <これは、米軍が捕虜をとらなかった、ということを裏付けている。>
 マッカーサー将軍は、「アングロサクソン種の男は劣等諸人種の男よりも負傷に対する抵抗力が強い」と<いう惚けた>説明をした。」(110)
 「彼は、キューバでスペイン人がやったように、ゲリラ狩りをよりうまく遂行するために、<フィリピンの>一般住民を「収容所に入れる」ことを決めた。・・・
 人々は自分で運べるものは収容所に持ち込めたが、残りのものは放棄させられた。
 悪臭を放ち、録に物資が供給されない収容所の中では多くの一般住民が死んだ。
 収容所の外では、米軍部隊は、一般犯罪人として、捕まえた<フィリピン人の>自由の戦士達を射殺した。
 マッカーサーは、彼らの捕虜の資格を剥奪していたのだ。」(112)

→その息子たる、マッカーサー連合国総司令官もまた、この父親譲りのフィリピン人観を抱いていて、このフィリピン人観の延長線上で日本人も(、更には、当然のことながら、朝鮮人も支那人も)とらえていた、と考えられます。
 彼の日本人12歳説(コラム#221、871、3253、4055、4131等)は、それを端的に示して余りあるものがある、と思います。(太田)

 「<そして、>マッキンレー大統領は、1900年に入ると、フィリピンにおける叛乱はもはや事実上終わったとして、それまでの軍人総督に代えて、文民総督を送り込むこととし、ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft<。1857〜1930年>)<(コラム#3543)>を総督に任命する。>」(113)

(続く)