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太田述正コラム#4420(2010.12.6)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その3)>(2011.3.12公開)

 (5)「解放」

 「・・・1914年に第一次世界大戦が勃発し、その翌年、<英自治領たる>南アフリカの軍隊がこのような悪のためのるつぼと化していた<ドイツの南西>植民地を奪取した。
 戦後、ドイツのアフリカ帝国は終焉を迎え、ナミビアは南アフリカの委任統治領となり、1990年に最終的に独立を達成した。・・・」(E)

 「・・・オマヘケ(カラハリ砂漠)に逃げ込んだ何万人もの<南西アフリカ原住民の>人々が目指したのは、英領ベチュアナランド(Bechuanaland)だった。・・・」(F)

 「・・・<南西アフリカでドイツがやったことに>憤慨した英将校が、ヘロロとナマのジェノサイドに対する痛烈な批判を書き、それが1919年に(英議会報告書たる)青書として出版されたが、これが、ヴェルサイユ平和会議において、ドイツの諸植民地をドイツに返還することを否定する根拠にされた。
 しかし、その後、<国際連盟によって>ドイツ南西アフリカをその委任統治領にされた<自らが人種差別政策をとっていた>南アフリカ共和国にとっては、このジェノサイドの記録は隠す方が都合が良かった。
 これは、帝国政策に罹るいくつかの理由から、英国の官僚機構の黙認の下で行われたものだ。
 こうして、この青書のコピーは、1927年に<英国の>全図書館において廃棄されるとともに、それ以外のものは英外務省に返還され<て隠匿され>た。・・・」(F)

 (6)南西アフリカ統治のナチスによる継受

 「・・・この本のタイトルとサブタイトルが示しているように、共著者達は、<ドイツ>皇帝とヒットラーの継続性を強調するとともに、ナチズムは、長く忘れ去られていたところの、この植民地的悪たるルーツから生じたことを示唆している。・・・」(A)

 「生存圏・・・<なる>諸観念は、1870年代に、・・・フリードリッヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel<。1844〜1904年。ドイツの地理学者・民族誌学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Ratzel (太田)
>)・・・<という、>ジャーナリスト・学者にして政治地理学(Politische Geographie)を1897年に出版した<人物>・・・によって作り上げられた。・・・
 ドイツ植民学会(German Colonial Society)の創建者の一人であったラッツェルは、・・・ダーウィンの進化論を歪め・・・た社会的ダーウィン主義の物の考え方にいかれ・・・、移民を行うことは、1つの種の長期的生存のために必須であると主張した。
 この理論によれば、移民を行うのを止めることは、前進を止めることであり、生存により適した他の諸種によって追い越される危険性を冒すことなのだ。・・・
 <彼に言わせれば、>「植民地の人々が消え去ったのは、彼らが迫害され、奴隷にされ、絶滅されたからだ。これは、植民者達、交易者達、そして兵士達によって行われた。そこには神秘的なことは全くない。」<のだ。>
 彼(ラッツェル)は、アフリカ、アメリカ、そしてアジアの原住諸人種の内生的な文化的脆弱さが、彼らを受動的にしたために、<彼らは、>欧州人による攻撃に持ちこたえることができなかったのだろう、と主張することで自分の言に保険をかけた。
 「しかしながら、彼は、彼らの破壊の手段が銃と牢獄であったことを明言している。これら全てのことが受容できるのは、欧州人が破壊している人々が、彼の言葉であるところの「劣等諸種族」だからだ。彼らの土地は、自然なこととして力で奪ったところの、より強い人種によって求められたのだ。」<というわけだ。>」(D、E、F)

 「・・・<また、ラッツェルらの>疑似科学者達によれば、文明は、諸人種の調和的統合によってではなく、諸人種の分離によって成り立っているのだった。・・・」(B)

 「・・・そこから、ナチスドイツにおけるアーリア人の人種的至上性の擁護まではほんの数歩だった。・・・
 共著者達によれば、ナミビアの「キリングフィールド」は、ヒットラーのジェノサイド的狂気の前兆であっただけでなく、この独裁者の、ユダヤ人とスラブ人を「非人間」とみなしたところの、欧州東部に打ち立てられるであろう妄想上の帝国への霊感をもたらしたのだ。・・・
 ヒットラーは、その帝国が「ドイツのカリフォルニア」になることを望んだ。・・・
 同時に、ナチスは、(異種族混交を禁じ、混血たる庶子への市民権付与を否定し、また、彼らの断種について規定した)南西アフリカの人種諸法をドイツの法典の中に導入した。・・・南西アフリカにおける、死の収容所の設立、1904年の「絶滅指令」の発出、世界を人種の線によって分割することへの固執、そして人間の虐殺に対するイデオロギー的正当化・・こういったものすべてが、後に<ナチスドイツの下で>欧州が経験するところとなるものの身の毛のよだつ前兆だったのだ。・・・
 だから、ナチズムは、人類の醜行の孤立した事象ではなく、帝国ドイツ領アフリカにまで遡る初期以来の<ドイツの一連の>ふるまいの一部を構成している、と言えるのだ。<(注3)>・・・」(B、D、F)

 (注3)「<あのヘルマン・ゲーリング(Hermann Goring)の父親でドイツ南西アフリカの初代総督を勤めた>ゲーリング(Heinrich Ernst Goring)博士がヘロロとナマの部族の土地を強制収容し始めてからそれほど経たない頃、ベルリン政府は、<南西アフリカにおける>強制収容所群の使用を認めている。」(B)

 「<南西アフリカにおける>ジェノサイドの<下手人たる>帰還兵の一人がバヴァリアのフランツ・ザヴィエル・フォン・エップ(Franz Xavier von Epp<。1868〜1946年。ナチス政権下で1933年から45年までバイエルン州の総督(Reichsstatthalter)を勤めた。
http://de.wikipedia.org/wiki/Franz_Ritter_von_Epp (太田)
>)と呼ばれた上級尉官だった。
 彼は、その生涯を、ドイツの人々は「より低い諸人種」を犠牲にして領土を拡張する必要があるという観念を宣伝しつつ送った。
 1922年には、既に将軍になっていた彼は、アドルフ・ヒットラーをミュンヘンの右翼の民兵組織に引き入れるとともに、この将来の<ナチスドイツ>総統を、やがてナチスをコントロールすることとなる選良達に紹介した。
 この選良のうちの一人は、フォン・エップの副官であったエルンスト・レーム(Ernst Rohm<。1887〜1934年。ヒットラーによって処刑される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_R%C3%B6hm (太田)
>)<(コラム#4288)>だった。
 彼は、悪名高いナチスの<民兵たる>突撃隊(stormtroopers)の<共同>創建者となる。
 アフリカの諸植民地のフォン・エップ等の古参兵とのコネを通じて、ヒットラーとロームは、植民地・保護部隊(Schutztruppe)<(注4)>の制服の余剰品を<ナチスの突撃隊用に>調達することができた。

 (注4)19世紀末から1918年まで存続。本部はベルリンにあったが、陸軍や海軍には所属せず、志願兵のみによって校正された。大きな部隊は、ドイツ東アフリカ(タンガニーカ)、同南西アフリカ(ナミビア)、同西アフリカ(カメルーンとトーゴ)の3箇所にあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Schutztruppe (太田)

 <この制服は、>アフリカのサヴァンナの戦争のためにデザインされたものなので、シャツの色は黄金茶だった。
 これを着たナチのならず者達<たる突撃隊>は、爾後、名高くも茶シャツ隊<(コラム#4288)>として知られることになった。・・・」(E)

(続く)

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