太田述正コラム#4414(2010.12.3)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その4)>(2011.3.9公開)

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<脚注>

 19世紀は、米国にとって南北対立(戦争を含む)の時代だった。
 ブラッドレーは、この事実を全くネグっているので、この際、別の典拠に拠って、改めて、南北のアイデンティティーの違いをさぐっておこう。

 ちなみに、既にずっと以前(コラム#624で)、「米国は、<北部の>キリスト教原理主義者的アングロサクソン<(いわゆるWASP(コラム#3407))>と、<南部の>根っからのキリスト教原理主義者たるスコッツ・アイリッシュ<(Scots-Irish=Scotch-Irish)>がつくった国であり、米国は、単にキリスト教原理主義的要素によってだけでなく、そこにスコッツ・アイリッシュ的要素が加わって初めて、イギリスとはひと味違う、できの悪い(bastard)アングロサクソンになった、ということになりそうですね。」と記したところです(注1)。

 (注1)その後、「米国がイギリスと異なるところがあるとすれば、それはスコッチ・アイルランド人のせいだ、と考えてよいと思います。」(コラム#3241)と書いたことがあるが、これは単純化し過ぎであり、筆が滑ったもの。
 キリスト教原理主義者的アングロサクソンもイギリスとは異なるからだ。

 「・・・地理学者(geographer)のジェディディアー・モース<(前出)>や辞書編集者の<(注2)>ウェッブスター(<Daniel> Webster<。1782〜1852年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Webster (太田)
>)<(コラム#1353、3548)>のような北部の一味は、 ヤンキーの「勤勉…倹約[そして]敬虔」を南部の奴隷保有文化の「贅沢、浪費(dissipation)、そして無節制(extravagance)」とを辛辣に対照させて、ニューイングランドを米国のアイデンティティーと性格のモデルとして恥知らずにも褒めちぎった。

 (注2)「辞書編集者の」は「政治家の」と書くべきところであり、校正ミスであると思われる。
 辞書編集者の方は、「ダニエル」ならぬ、「ノア」・ウェッブスター(Noah Webster。1758〜1853年)だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Noah_Webster (太田)

 ウェッブスターは、「お主ら<ニューイングランドの>住民は、いかに道徳、文学、礼儀正しさ、勤勉において優位にあることよ」と結論づけた。・・・
 ・・・ハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriet Beecher Stowe<。1811〜96年。奴隷制廃止論者・作家
http://en.wikipedia.org/wiki/Harriet_Beecher_Stowe (太田)
>)を含む、その後の作家達は、北部の諸州は米国と同義語であり、南部はそのアインチテーゼとして屹立している、とのより幅広いヴィジョンを鼓吹し涵養するのを助けた。
 1823年には、既に、ニューヨーク人たるゲリット・スミス(Gerrit Smith。<1797〜1874年。奴隷制廃止論者・政治家・博愛主義者
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerrit_Smith (太田)
>)が、おおむね「北部と南部の人々の間の民族的(national)性格の差異」的な言を発することができた。・・・
 ダニエル・ウェッブスターは、国家的利益(national interest)の言葉を用いて保護関税や公共投資(internal improvement)といった地方的(sectional)諸政策への彼の支持を一貫して覆い隠し続けた。・・・
 1820年代、南部が山のように批判を受けている中で、騎士(cavalier)の伝説が通用しだすようになった。
 それは、南部人達は、11世紀にイギリスを征服してイギリス社会の上流階級において棲息することとなったノルマン人貴族(baron)達の後裔である、というものだった。
 この物語によれば、イギリス内戦において、その血族がその後<米>北部に定住したところの、庶民の(plebeian)清教徒たる議会党員(Roundhead<=parliamentarian。コラム#1374、4109)>)ないし「サクソン人」に敗北した後、米南部の諸植民地に移住した。
 1863年に一人のヴァージニア人が主張したように、「メイフラワー号から這い出てきたところの、サクソン化した偽善者(maw-worm)達」は、「雄々しい(gallant)人種たるノルマン系英国人大農園主(planter)達」の「血族」であると称することは、いかなる意味でもできない、というのだ。
 騎士伝説への熱意は、極めつきに人気があったサー・ウォルター・スコット(Sir Walter Scott<。1771〜1832年。スコットランドの歴史小説家・戯曲家・詩人
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Scott (太田)
>)<(コラム#4177、4197)>の著作によっても火を掻きたてられた。
 彼の、イギリスによる圧政に対するスコットランドの闘争の諸物語が、南部の北部に対する闘争を呼び起こすかのように見えたのだ。
 スコットは、南部においてかくも愛されたがゆえに、マーク・トウェイン(Mark Twain<。1835〜1910年。米国の著述家・ユーモア作家
http://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Twain (太田)
>)は、後に南北戦争に関し、南部人が「サー・ウォルター病」に罹ったことが主たる原因である、とするに至る。
 ヴァージニア人を除き、南部人達は、イギリスの騎士達との家族的紐帯についての証拠を示すことができた者はほとんどいなかった。
 (そして、ノルマン人の先祖達を持つ騎士達の数は、更に少なかった可能性が高い。) しかし、だからと言って、この伝説が<南部に>急速に強固に根を張るのが妨げられることはなかった。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/12/01/the-cultural-roots-of-disunion/?ref=opinion
(12月3日アクセス)

 要するに、北部人アイデンティティーの形成の方が南部人アイデンティティーの形成より先んじた、ということです。
 これをブラッドレーの話とドッキングさせると、北部人は劣等人種と共生することなく劣等人種を絶滅させることを旨としたのに対し、南部人は、劣等人種と共生しつつも劣等人種を隔離し、奴隷として使役することを旨とした、ということになりそうです。
 言うまでもなく、これら米国人(北部人及び南部人)とは違って、同じ白人でも、スペイン人やポルトガル人等は、劣等人種と共生し、かつ隔離することなく盛んに混血することを旨としたわけです。
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(続く)