太田述正コラム#4406(2010.11.29)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その1)>(2011.3.6公開))

1 始めに

 読者のXXXXさんが送ってくれた大量の史料を、料理しやすいものから、逐次コラム化してきたのですが、なかなか手をつけるに至らなかったもの の一つが、大山梓編『山県有朋意見書』(原書房 1966年)からの数十頁に及ぶ抜粋(コラム#4259)です。
 「国家の独立自営の道二つあり。一に曰く、<本土の>主権線を守御し他人の侵害を容れず、二に曰く、<朝鮮等の>利益線を防護し自己の形勝を失わず」(196頁)という有名な文句がこの中に出てくるのですが、何せ、旧字体かつカタカナ表記で書かれているために敬遠しまくっていたのです。
 (引用する際には、新字体かつひらがな表記に変え、句読点を入れることにしました。) 
 しかし、出版前に発注したためになかなか届かなかった、James Bradleyの'The Imperial Cruise--A Secret History of Empire and War'が、先般ようやく届いた時、山県の東アジア戦略(サブ)を、セオドア・ローズベルトのそれ(メイン)とをつきあわせるシリーズを書こうとというアイディアがわき、それを実行に移そうと思いました。(コラム#4403参照)
 なお、'Imperial Cruise'については、既に累次(コラム#3658、3660、3972、3974、3976で)とりあげていますが、事柄の重要性に鑑み、内容の重複を厭わず、再度、しかも詳細にとりあげることにした次第です。

2 セオドア・ローズベルトの押しかけ使節

 「1905年の夏、セオドア・ローズベルト大統領・・公衆にはテディとして知られていた・・は、アジア向けに米国史上最大の外交使節を派遣した。
 テディは、陸軍長官(secretary of war)<のタフト(Taft)>、7人の上院議員、23人の下院議員、様々な文官及び軍人、自分の娘<(先妻との間に生まれた21歳の長女)>を、外洋客船に乗せて、サンフランシスコからハワイ、日本、<米国領になったばかりの>フィリピン、支那、朝鮮、そしてサンフランシスコに戻るという旅に 送り出したのだ。
 当時、ローズベルトは・・・国務長官を兼任していた。」(PP1〜2)

 「ローズベルトは、米国のアジアにおける拡大に熱中しており、「我々の将来の歴史は、欧州に面している大西洋より支那に面している太平洋における立ち位置(position)によって、より決せられる」と宣言していた。
 テディは、米国の力が北米大陸全域を覆い尽くしたようにアジア全域を覆い尽くすであろうことを確信していた。」(3)

 「この本は、1905年の夏が、彼によるアジアについての軽い語り口の背後に隠されていた極めて大きな棍棒であって、それがつけた傷が、太平洋における第二次世界大戦、中国共産主義革命、朝鮮戦争、そして今日の我々の生活を満たしている数多くの緊張に触媒作用を及ぼしたことを暴く。」(4〜5)

→20世紀は、米国によるアジア凶行の歴史であった、という私の見方を裏付けるような箇所でしょう。(太田)

 「日本の<桂太郎>首相との極秘の会談にといて、タフトは、ローズベルトの指示に従い、日本が朝鮮に拡大することを認める<米国と日本の>秘密条約締結を仲介ちした。
 米国の大統領が米国上院の承認なしに他国と条約を結ぶことは違憲だというのに・・。
 そして、日本政府と秘密裏に交渉をしていると同時に、ローズベルトは、当時までの最大の戦争であったところの戦闘を行っていたロシアと日本の協議の「誠実なる仲介者」としての役割を演じていたのだ。
 この両国は、1905年の夏にポーツマス平和条約に調印する運びとなり、その1年後に、ローズベルトは、<その功績が認められて、>ノーベル平和賞を初めて授与された米国人になった。」(5)

 「ローズベルトはしばしば、「私は日本が朝鮮を保有するのを見たいと思っている」と語った。
 実際、アリスが朝鮮と米国の友好のための友人としての乾杯を行ってから2ヶ月も経たないうちに、彼女の父親はソウルの米国大使館を閉め、この寄る辺なき国を日本の部隊の手の下に捨て去ったのだ。・・・
 米国は、日本による朝鮮の支配を承認する<世界>最初の国となる。」(8)

→ここでは、ブラッドレーは、現在の米国の朝鮮半島とのやっかいな関係に言及していませんが、書くまでもないといったところでしょうか。(太田)

 「1902年7月4日、ローズベルトは米国がフィリピンにおける戦争が、イスラム教地域における騒動の種を除き、終了したことを宣言した。・・・
 <しかし、>それから1世紀経った現在でも、米軍部隊が、なお、「平定された」町の近くで戦っている。」(6〜7)
 「1905年には、怒れる支那人達がタフト長官の訪支に抗議した。
 当時、支那の商人達は米国との貿易を中断し、全米国製品の不買運動を行っていた。
 怒れる支那人達は反米集会に集い、支那の都市の壁には侮蔑的な反米ポスターがべたべた貼ってあった・・・。
 この1905年の支那の米国に対する不買運動は、強烈な支那ナショナリズムに点火し、それがやがて革命、そして1949年の支那と米国との間の国交断絶へと導いたのだ。・・・
 <そして、再び>今日、米中関係において貿易紛争が吹きつのっている。」(7)

→(朝鮮半島だけでなく、)このように、日本でもフィリピンでも支那でも、因果は巡る、というわけです。(太田)

(続く)