太田述正コラム#4392(2010.11.22)
<戦前の日英関係の軌跡(その4)>(2011.3.4公開)

 「クレイギーの業績を評価しようとする論評には、次のように二つの派に分かれた見方が出てきている。その一つは、クレイギーは日本事情に疎く、そのため態度の曖昧な日本の「穏健派」と手を結ぼうとして、あまりにも安易に不当な宥和政策を講じた男とみる見方である。それと対照的なもう一つの見方は、東アジアにおける英国の弱点を知り抜き、英国に悲惨な結果をもたらす可能性のある戦争勃発を阻止する交渉者として、実質的な外交手腕を駆使しようとした現実主義者とみる見方である。」(346頁)

→クレイギーに否定的な見方は、そもそも、日本に「穏健派」と「急進派」がいるとの思い込みを前提にしている点で既に間違っており、クレイギーに肯定的な見方が正しいことは言うまでもありません。(太田)

 「日本におけるクレイギーの責務に対する評価の基本的なことは、ドイツの影響に対抗する世界的な闘いに関して、日本の中立化に全力投球すべきとの信念、就中、日本を味方に引き入れようとするリッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)の動きを牽制すべきとの信念にあった。・・・
 こうしたクレイギーの態度の論理的結末は、世界規模で日本を懐柔するというより大きな目標のために、東アジアにおける英国の地域権益を軽視するという明確な傾向となって表れた。
 この件で最も顕著な例が、以下のクレイギーの主張である。いずれ日中戦争では、日本が勝利を収めるだろう。またいかなる方法にせよ英国が中国人を支持すれば、日本人をいたずらに敵に回す結果になるので、英国は厳格に中立主義を守るべきとの主張である。これは、当時受けのよい路線ではなかった。理由は、中国は支援に値するという、当時の一般的感情を無視するものであり、また日本の勝利は東アジアにおける英国の多大の経済権益の破綻を決定づけることになると見られたからであった。・・・
 クレイギーの明解なる見解は天津租界事件のさなか、外務省宛ての電信に見られる。その中で、彼は次のように辛辣に記している。
 「我が英国の外交政策には、従来から公然たる派閥が存在していた。それは今日の状況の下では、我々の理性よりもむしろ感情を支配しようとする傾向がある。…たとえ、英国がより厳しい中立に立ち戻ることが不可能であるにしても、私は我が同朋が向かおうとしているところの致命的な危険性を、強調しなければならない義務を感じている」」(347〜348頁)

→ベストは、ここでは、クレイギーに肯定的な見方に立ってこのように記しているのです。
 なお、「東アジアにおける英国の地域権益を軽視する」と言っても、ここで「東アジア」とは支那を意味していることに注意。(太田)

 「1940年7月にやってきた・・・ビルマ・ルート封鎖問題に関する日英関係の最新の危機に対する反応として、クレイギーは、・・・英米が日本の疎外感を緩和できる最も効果的な方法は、日本が原料を入手しやすい状況を作り出してやることとの結論に達した。彼は、それが日本にとって領土拡張よりも重要であると彼が考えたのである。これは国際的な体制を改訂しようとする日本の動機に関する洞察力のある分析であり、1936年にクレイギーが述べた、・・・「私たちを間違った方向に進ませるものは、ドイツのみばかりでなく、<英国を含む>全世界について言えることだが、それは・・・「いま我々が保有している領土<(=植民地/保護領/委任統治領)>はこれからも保持する」というスローガンである」。このタイプの分析は英帝国の過大な責任の結果へ対する彼の恐怖が、論理的に拡大されたものであって、クレイギーの考え方が、英国の国益の短期の、その日限りの防衛から離れて、硬直した柔軟性のない現状維持だけを目的とした防衛は、できるだけ避けたいと思っていた挑戦を誘発するおそれがあるというさらに幅広い理解へ移っていく余地があったことを示している。」(349〜350頁)

→いささか分かりにくい表現ながら、ここで、ベストは、クレイギーが日本の対外政策は領土欲ではなく(基本的に対赤露)安全保障上の理由から推進されていると考えていたこと、を示唆しているわけです。
 ここでは、もっぱら経済安全保障の話が全面に出ていますが、当然、クレイギーは日本の軍事安全保障の基本が対赤露であることを承知していたことでしょう。
 日本の経済安全保障は、国家経済の維持のためであると同時に、軍事安全保障の不可欠な前提(軍艦等の燃料等の確保)でもあったことも・・。
 そして、クレイギーが、このような日本の安全保障政策に倣って、英国も自らの安全保障政策を転換すべきである、と考えていたフシがあることをハントは示唆しているわけです。
 クレイギーは、さしあたり、英国は、日本の強大化を自らのアジア等における植民地等の支配に対する脅威と見るのではなく、日本との宥和を実現した上で日本と手を携えて、第一義的にはロシアと、第二義的には欧州の強国と対峙しつつ、次第に植民地等から撤退して行くべきだ、という構想を抱いていたように私には思われます。(太田)
 
 「<クレイギー>はより親密な日英関係に幅広い理解を示す<日本の>政治家あるいは他の人たちの存在を確信していたが、この見解は当時の英国人あるいは米国人が持っていた共通的理解ではなかった。この件における特記すべき重大な批判者は、東京の英国大使館商務参事官、すなわちサー・ジョージ・サンソム(Sir George Sansom)であった。彼は日本における長い滞在の経験から次のように感じていた。「穏健派」というものが存在するなら、「急進派」との差は、その目的ではなくその手法で違うのであり、いずれにせよ人数が少なく、影響を与えるといった類のものではない。この見解は英国外務省極東局で、又ワシントンの米国務省極東部の顧問・専門家スタンリー・ホーンベック(Stanley Hornbeck)により支持を受けていた。
 クレイギーにとって、この日本の「穏健派」の切り捨ては非常に皮肉なことであり、状況の微妙さに対する理解を欠如していると思われた。・・・
 クレイギーの「穏健派」の存在と重要性に関する確信は、二つの要因に起源を持つと見ることができる。一つはクレイギーが、東京へ赴任する前から接触した日本人の大部分、すなわち、松平恒雄、山本五十六、吉田茂、永井松三は幅広く親西欧的外交政策を支持していたという事実、二つめは彼の来日後、引き続き大使館付陸軍武官を勤めた、F・G・ピゴット少将(F.S.G Piggott)の影響であった。」(351〜352頁)

→ここから、ベストに根本的な誤解があることが分かります。
 またまたサンソムが登場していますが、クレイギー自身、日本に「穏健派」と「急進派」が存在しているとしても、両者は目的を同じくしていてその目的を達成しようとする手法が違うだけであることから、この両者を区別することなどナンセンスであると思いつつ(コラム#3960)、英外務省中枢がこの区別を信じ込んでいることから、便宜上、このような区別を踏まえたかのような電報を本国に打っていたと考えられるからです。(太田) 
 「しかしながら、クレイギーの「穏健派」に対する信頼が、上述の二つの要因にのみ起因するという議論は、クレイギーにとって酷な話であろう。・・・
 クレイギーが日本政府の中に穏健的な意見の一派があると信じるようになったのは、主として彼の日本での外交経験に基づくものであった。交渉につぐ交渉を通じて、クレイギーは、とりわけ外務省に緊張緩和を望む人物の存在を見いだしたのである。1938年夏の終わり、クレイギーと陸軍大将宇垣一成[外相]との会談、および1939年7月から8月にかけての天津租界事件と1940年1月から2月にかけての浅間丸事件を巡る有田八郎外相との会談は、的確なアプローチをもってすれば解決への共通的な場が見い出せ、極めて困難な局面での打開が可能であることを示しているように思えた。
 これらの経験から導かれる結論は、次のようであった。つまり、クレイギーが真の意味での外交を任せてもらえたなら、成果を出すことはできたはずであるが、しかし実際は、外務省が新たな難局に直面した時、初めて彼に交渉を任せたのである。そしてこのような局面の時ですら、彼は限られた時間と制約の中で、事にあたらねばならなかった。又クレイギーが、日本人の相手とさらに総体的な話し合いを進めようとするとき、極東局は常にクレイギーの前に、不動の障壁として立ちはだかるのであった。結果は大使側に激昂する感情の高ぶりだけを引き起こし、それは激しい口調となって、外務省に向けられた。」(353頁)

→ベストがクレイギーに対して肯定的であることが良く分かる箇所ですね。(太田)

 「<ピゴット>武官に対する大使の表立った信任は、極東局においても、また大使館若手職員からも、ひどく嫌われていた。そしてその事は、日本理解については、クレイギーは未熟であるという印象を強める結果となった。」(352頁)

→極東局云々については典拠が示されていますが、大使館若手職員云々については、典拠が示されておらず、ハントの筆が滑ったのではないか、とも思われます。(太田)
 
 「クレイギー・・・<は、>ワシントンに対しては、多少偏見を持った見方をしていた。
 クレイギーの「アメリカ観」の形成は、東京に赴任する以前の外交経験に起因している事は重要なことである。海軍軍縮交渉における彼の役割、1928年から1934年までの外務省アメリカ局長としての経験がアメリカという国の信頼性に対する見方を形成した。・・・ <このアメリカ観は、クレイギーが東京に赴任してから>さらに強くなったのである。
 なぜなら米国は、もし英国に<(ママ)>日本との対決を余儀なくされた場合に、大言壮語する割りには英国支援という気持ちはほんの僅かしか持っていなかったからである。これを証明するいくつかの事件がある。1938年1月と1939年1月に英国支援という形跡を見せながら、その瀬戸際のところで米国は結局行動を起こさなかったのである。」(354頁)

→クレイギーは、米国を、英国の世界覇権を打倒しようとしているところの、英国にとっての最大の敵、と認識していた、とさえ、私としては言いたいところです。
 彼は、内心、日本こそ英国が組むべき相手であると考えていたのではないでしょうか。(太田)

 「日本の「穏健派」の善意に対するクレイギーの楽観的な対応の中には、時として単純素朴な面もあったかもしれないが、「英国はすでに世界に多くの敵をかかえてしまったので、もう一つの強国を不必要に疎外することは、愚かなことである」というクレイギーの見解は、結局、基本的には正しかったのである。1937年から40年の頃、これはとるべき態度として賢明であった。」(354〜355頁)

→ここも、(「穏健派」云々はともかく、)ベストのクレイギーに対する肯定的評価が伺える箇所です。
 ただし、そのような評価ができるのは、大使として日本に赴任した時点から1940年まで、という限定付です。(太田)

(続く)