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太田述正コラム#4390(2010.11.21)
<戦前の日英関係の軌跡(その3)>(2011.3.3公開)

 「<ピゴット>の目には、迫り来る嵐の前兆は見えなかったようである。日英関係が悪化していることには気付いていたが、それは同盟の廃棄によって日本が陥っていた孤独感から来る当然の反応であると考えた。日本に超国家主義、全体主義的な軍部による支配、常軌を逸した神道の天皇崇拝などが台頭してくる不吉な前兆に気付いた様子は全くない。
 その事を物語るように、彼の自伝は、南京虐殺、ファシスト思想に支配された軍部、日本民族優位の神話の浸透、「暗殺政治」「帝意」を標榜することで自らに価値決定の権利が備わっていると錯覚した陸軍将校達が起こした法体制の転覆、などという一連の題材には一切触れていない。
 1939年に帰国した後も、事態は最終的には収拾されまもなく両国相互の善意が回復されるだろうと、信じ続けた。その年の10月。サー・ロバート・クレーギーが、日英間に現在ある誤解の70%は無知な偏見に基づいた意味のないものであり、20%は純粋に誤解であり、現実の難題を提起しているといえるのは、わずか10%にすぎないと発言した時、F・S・G・ピゴットは彼に喝采を送った。
 ついに最後まで、彼には日本の影の部分の本性は見えないままであった。」(213頁)

→ピゴットのところを担当したのは、カーメン・ブラッカー(Carmen Blacker。1924〜2009年。長くケンブリッジ大学で日本学の講師を勤める)です。
 しかし、彼女の専門は日本の民俗学であり、いくら小さい時からピゴットと親交があった
http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/obituaries/article6709795.ece
とはいえ、果たしてピゴットの小評伝を書くのにふさわしい人物であったかどうか、疑問なしとしません。
 「陸軍将校達が起こした法体制の転覆」とはそもそも誤解を招く表現ですが、いずれにせよ、どんな社会にも暗部はあるのはもちろんですし、当時が全球的な激動の時代であったことも忘れてはならないでしょう。
 例えば、同時代の英国においても、我々は、ファシストのオズワルド・モズレーの台頭と英国政府による彼の法的根拠なしの長期拘禁がありました(コラム#1428)し、退位後のウィンザー公(エドワード8世)が親ナチ的言動を、第二次世界大戦が始まってからでさえ続けたり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VIII_of_the_United_Kingdom
といった「影の部分」を容易に見出すことができます。
 ブラッカーが言及する当時の日本の影の部分にせよ、このような当時の英国の影の部分にせよ、日本における、そして英国における例外に属します。
 ピゴットもクレイギーも、当時の日本の例外的潮流ではなく、主たる潮流にもっぱら目を向けていたのであって、それは正しい姿勢であった、と言うべきでしょう。
 ピゴットが唯一責められるとすれば、英チャーチル政権が、大英帝国を過早に瓦解させることにつながるような、不合理にして自殺的な対外政策に最後まで固執するなどということが、彼には、到底信じられなかったことでしょうね。
 ところで、ここで引用されているクレイギーの言は強烈ですね。
 クレイギーのホンネが、「日英間に現在ある誤解の70%は[英国側の]無知な[人種的]偏見に基づいた意味のないものであり、20%は純粋に[英国側の]誤解であり、現実の難題を提起しているといえるのは、[これも英国側が提起したものばかりだが、]わずか10%にすぎない」であったとしても、私は全く驚きません。(太田)
 
 「<1941年の>秋が深まるにつれて状況は一層悪化し、ついに11月半ば近衛内閣は倒れ、東条英機が首相になった。最悪の人物であるというのが<英国>世論の声であった。<当時既に英国に帰国していた>ピゴット将軍・・・はとどまるところを知らぬ楽天家だった。東条が独伊枢軸支持者であるというのは大間違いであると、彼は断言した。ただただ日本びいきであったピゴットは、「日本人をドイツ人と同じに扱ってはならない。日本人に必要な特別の配慮を示すことだ。そうすれば。英国は世界で最も忠誠心の強い、信頼に値する友を得ることができる」と考えていたのである。」(213頁)

→クレイギー(コラム#3966)、ピゴット、そして昭和天皇(コラム#4378)までもが東條を高く評価していた、と来ているのですから、英国世論や英国政府中枢の東條評の方が間違っていた、ということにならざるをえますまい。(太田)

 「戦争がついに終わると、今度は日本人の軍人で誰よりも英国を愛した彼の旧知の友、本間中将を処刑から免れるよう、そしてもう一人の友人、重光葵に対しロシアの強い主張で課せられた投獄の宣告を軽減しようと、骨身を惜しまぬ努力をした。一方、ロンドンの日本協会の復活の準備をただちに開始し・・・た。
 1955年、当時外務大臣であった重光葵の招きを受けて、もう一度、以前にも増して揚々たる訪日を果たすことができた。・・・」(215頁)

→あのできの悪い重光(コラム#4348、4350、4366、4376、4378)がピゴットの友人であったとは思いたくはありませんが、いずれにせよ、ピゴットの親日に徹した生き様に、心から敬意を表したいと思います。(太田)

5 サー・ロバート・クレイギー(Sir Robert Craigie。1883〜1959年)(A)

 いよいよ真打ち登場です。
 クレイギーのところを担当したのは、アントニー・ベスト(Antony Best)で、戦前の日本の政治史が専門のLSE上級講師です
http://www2.lse.ac.uk/internationalhistory/whoswho/academicstaff/best.aspx
から、クレイギーの小評伝執筆者としてはふさわしい、と一応は言えそうです。
 しかし、彼による冒頭のまとめは、以下のような、問題の多いものです。
 
 「クレイギーはヨーロッパ戦争の舞台から遠く離れた日本に居て、かつ、赴任以来本国への帰国の機会がなかったことから、英国の包括的利益に役立つ政策の判断能力を失ってしまったものと考えられる。孤立した環境にあって、クレイギーは対日戦争回避の当初の本国命令に固執していたが、その政策は今や兵力と資材の消耗にすぎないと見なされているとの認識がなかった。また、英国は米国の連合戦戦への支援だけでは勝利を収め得ず、政策の優先順位を米国を直接参戦に誘導することに変更したが、クレイギーはこれを把握し得なかったのである。」(345頁)

→話はその真逆であって、英本国中枢、端的に言えばチャーチル政権は、「ヨーロッパ戦争の舞台から」近すぎたために、全球的視点から英国の国益を判断する「能力を失ってしまったと考えられる」のであり、「政策の優先順位を米国を直接参戦に誘導することに変更した」のは、大英帝国瓦解につながった愚行であった、というのが私の見解であることはご承知の通りです。(太田)

(続く)

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