太田述正コラム#4386(2010.11.19)
<戦前の日英関係の軌跡(その1)>(2011.3.1公開)

1 始めに

 読者のXXXXさん提供の
A:イアン・ニッシュ編『英国と日本(Britain & Japan)--日英交流人物列伝(Biographical Portraits)』(博文館新社 2002年)
、及び
B:サー・ヒュー・コータッツィ&ゴードン・ダニエルズ編『英国と日本--架橋の人びと(Themes and personalities)』(思文書閣出版 1998年)
のそれぞれの抜粋から更に抜粋する形で、戦前の日英関係の軌跡を辿ってみたいと思います。

2 サー・クロード・マクドナルド(Sir Claude Maxwell MacDonald。1852〜1915年)(A)

 「サー・クロード・マクドナルドは1900年から1912年までの12年間、日本駐在英国公使・・・<そして、>日露戦争後、英国<が>日本の公使館を大使館に昇格し<たことにより、>、・・・同大使として勤めた。・・・
 彼は、スコットランド出身の軍人で、アフリカの英国保護領で総領事を勤めたのち、北京公使となった。北京で義和団事件<に遭遇、>1900年の秋に、アーネスト・サトウの後任として東京へ赴任した。彼の在任中、1902年に最初の日英同盟が結ばれ、1905年に更新、さらに1911年に再度更新された。」(203頁)

 「マクドナルド<の部下>は、・・・1909年に・・・こう書いている。「<英国>政府は大使<に>・・・信頼を置いておらず、大使が日本の立場で物事を判断しすぎると考えている。・・・しかしマクドナルドの私設秘書であったジョージ・サンソム(George Sansom)は、彼のことを愛情と理解をこめて書いている。」(211頁)
 「ジョージ・サンソム(Sir George Sansom 1883-1965) 英国の外交官、日本学者。1904年通訳生として来日、その後大使館の商務参事官となり、1940年開戦により帰国した。在勤中、日本の言語、歴史を研究し日本学者として名を成した。第二次大戦中は海軍軍令部、陸軍省情報局に勤務し、戦後は連合国極東委員会英国代表として日本を視察した。その後コロンビア大学東アジア研究所所長を勤めた。『日本文化史』、『西欧世界と日本』、『日本史』等の著作がある。」(220頁)

→戦前の日本は、赴任した欧米の外交官を虜にする魅力溢れた地であったようですね。
 1921〜27年駐日フランス大使(その後駐米大使、駐ベルギー大使)を勤めたポール・クローデル(Paul-Louis-Charles Claudel。1868〜1955年)は、舞踊詩劇『女と影』を書き、帝国劇場で、七代目松本幸四郎、五代目中村福助らによって上演されたほか、著書に『Correspondance diplomatique. Tokyo (1921-1927)』(1995年)(邦訳:『孤独な帝国-日本の一九二〇年代』(草思社 1999年))があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB
 なお、サンソムは、狂言回しのように、これからたびたび登場します。(太田)

 「個人的な手紙の中で<マクドナルド>はこう書いている。
 「陛下(明治天皇)は極めて親しげに周りの人々と話し合っていた。陛下の両側に座った皇族方すなわち有栖川宮と閑院宮の両殿下は明らかに敬意のこもった態度でお相手していたが、伊藤侯爵と井上伯爵(私の隣席にいた)は全く対等の間柄のような話し方で、冗談を飛ばし、この太陽の御子を大笑いさせていた。陛下はミカドでありながら実に人間味豊かに見えた・・・」(215頁)

→明治天皇からは「現人神」の片鱗もうかがえませんね。明治天皇を尊敬していたであろう息子の大正天皇も、孫の昭和天皇も、同じであったに違いありません。(太田)

3 サー・チャールズ・エリオット(Sir Charles Eliot。1862〜1931年。駐日大使:1920〜26年)(B)

 「エリオットには外交官として経歴の中で、本国からの指令が自分の信念と矛盾していると指令を曲げたり時には無視したりすることが多々あった。」(317頁)

 「日英同盟・・・はアメリカには評判が悪かった。なぜなら、アメリカ側から見れば、日英同盟は日本にとって、アジア大陸への侵略の強い後盾とみなされていたからである。また、中国においても、同盟による日英の正式な友好関係は、過去から続いている中国に対する日本の脅威を支持するものとみられていた。英国から見れば日英同盟は、極東における英国の権益を、最初はロシアから、続いてドイツから守る、鎧のいわば甲鉄板であった。それが今、第一次大戦でのドイツの敗北とロシア勢力の崩壊とによって、これらの脅威が取り除かれ、当然の結果として、日英同盟は存在意義を急速に失っていった。また、それと同時に、第一次大戦の戦中戦後を通して、中国やシベリアにおける日本の軍事行動は、たびたび英国の利害と衝突するようになっていた。しかも同盟の取り決めにより英国は日本の政策に干渉できたにもかかわらず、現実の事態はその通りにはなっていなかった。結局、第一次大戦によって生じた国際情勢の中で、もはや形式的同盟関係は存在しにくくなっていた。もっとはっきり言えば、日英同盟を保持し、国際連盟にも加盟するということが両立しにくくなっていたのである。」(319頁)
 「東京に着任後、彼が同盟に関して初めて表わした見解は、「日英同盟の更新を主張する秀れた意見書」で、これを読んだカーゾン<英外相>は心を動かされた。そして、1920年12月にも再びカーゾンは、日英同盟問題を検討するために設置された外務省の委員会が提出する全体的に手抜きの答申より、エリオットの強固は同盟擁護論の方が説得力があるという判断をくだした。しかし、1921年2月から、同盟の更新は英米関係にとって逆効果であるとの理由で、カナダが反対の音頭取りを開始した。そうして1921年6月にはすでに、日英同盟問題が帝国会議の主要テーマになっていた。」(320頁)

→エリオットの尽力ににもかかわらず、結局、日英同盟は廃棄されてしまうわけです。
 カナダは米国の脅威に直面しており(コラム#1621)、米国の、カナダ及びその「本国」たる英国に対する猜疑心を少しでも減らすべく腐心していた、ということでしょう。(太田)

 「エリオットが本国に送った文書の中で繰り返し使われた表現は、日本が、世界の列強の一つとして認めてもらうこと、そして他の国との協調を重視していることを分かってもらうことを何よりも重要だと考えているということであった。また、<彼は、>「日本人が事実より礼儀を、物質的利益より国家の威信を重んじるというのは、誇張ではなく事実である」と書<いている。>」(322頁)

 「エリオットは日本が侵略主義を断念した具体例をいくつかあげることができた。まず、日本はワシントン会議の後、いさぎよく青島から身を引いた。そして、英国がエリオットの提案に従い、ウラジオストクにある武器の大量備蓄を破壊するのに要する間日本軍をとどめておこうと工作したにもかかわらず、日本はシベリアからも指示された期日を守って軍隊を撤退させたという点である。」(322〜323頁)

→エリオットは、対露安全保障を最重視する日本の理解者であったけれど、この当時、英本国のロシア観は、米国ほどではないけれど、日本に比べて甘かった、ということなのでしょう。その狭間で彼が苦労をした姿が眼に見えるようです。(太田)

 「<1924年、>日本人がアメリカの移民法に憤慨した時、エリオットは本国政府に、「日本は国際関係の中で公正かつ礼儀正しくあろうとしているが、もし外国人が日本人のやり方を受け入れないなら、彼らはそっぽを向くかもしれない」と警戒を促した。」(323頁)
 「エリオットは・・・中国における日英の権益は相反するものではないので、英国はアメリカとではなく日本と協力して共同の政策をとるべきであると、本国政府に働きかけた。しかし、このような意見は賛同を得られず、エリオット自身と外務省との対立を引き起こす結果となった。」(323頁)

→エリオットは、日本人同様、米国に不信感、警戒感を抱いていて、英国は米国よりも日本を重視すべきだ、と考えていたように思われます。(太田)

(続く)