太田述正コラム#4378(2010.11.15)
<『吉田茂の自問』を読む(その6)>(2011.2.28公開)

 (4)佐藤尚武(1882〜1971年。フランス大使・外相・ソ連大使・戦後衆議院議長)

 「この書きもの<(報告書(太田))>は、よくできているし、よい思いつきでもあると思う。その内容について、別にどうかと思うような点もない。」(263頁)

→これだけで、後読む必要がない、と言いたいところです。(太田)

 「元来私は、外務省の者は大臣になってはいけないという考えだった。というのは、外務省の者は海外に出ている期間が多いので国内に地盤を造るひまがない。従って内閣に入っても伴食大臣になってしまう。外務大臣は、どうしても閣内に重きをなすようでなくてはいけない。・・・
 他面、私は外務省の者は、誰も受ける者のない場合に責任を回避することは出来ないと考えていた。それで大臣就任を受諾したわけである。」(264頁)

→巧言令色鮮なし仁だからこそ、佐藤、食言のような話をして恬として恥じないのですね。(太田)

 「私は防共協定ができたときは、その時期と結ぶ相手方が悪いというので、これに不賛成で、巴里からかなり手強い電報を出したこともある。しかし、協定そのものは、共産勢力に対抗するものとしてよいと考えていた。」(266頁)

→格好付けるなと言いたくなりますね。(太田)

 「日本の軍部でも、幼年学校出が一番始末が悪かった。私は、今のロシアを非常に懼れている。日本の歴史をくりかえしているように思う。それは、幼年学校を沢山つくっているからだ。・・・その生徒は・・・領土の広さでも、あるいは、文明のすべての方面でも、ロシアが一番だという式のことを教えこまれておる。」(270頁)

→幼年学校出身の東條英機
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
へのあてこすりだと思いますが、純粋培養はよろしくないということは一般論としてはその通りです。
 ただ、ソ連は共産党が完全に軍を統制しており、また、政府機関では軍よりも諜報機関の方が重視されていた・・アンドロポフのように諜報機関トップを経て最高指導者まで上り詰めた者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%95
は軍部にはいません。(ちなみに、アンドロポフ以外は、党務以外のポストに就いたことのある最高指導者はソ連にはいません。(典拠省略))
 ソ連に関して軍をかくも重視する佐藤は、それだけで駐ソ大使経験者として失格です。
 更に問題なのは、佐藤がまるで戦前の日本とソ連とを似たような国と見ているかのようである点です。自分の国のことが分かっていない者がよその国のことが分かるわけがないという見本がここにあります。(太田)

 (5)林久治郎(1882〜1964年。奉天総領事・ブラジル大使)

 「吉田総理もそうだが、自分などもわれわれは外交官ではなく外交家だ、ステイツマンだというような生意気な気持ちで一向役所の仕事を覚えなかった。外交官というものは結局テクニシャンである<というのに・・。>」(271頁)

→林は、外務省で檜舞台を歩んだわけではなさそうなだけに、むしろ傾聴すべきものがあるかもしれないという期待を抱かされます。ここは吉田茂批判を行っているのでしょうね。(太田)

 「われわれの若い頃は、帝国主義謳歌の時代だった。・・・あの時代にウィルソンが帝国主義をしりぞけたことは、彼が偉かったことを示す。

→期待はただちに裏切られます。林もまた、米英の指導者のタテマエ論を真に受ける愚か者でした。(ウィルソンについては、コラム#3726、3728参照。)(太田)

 しかし、昔の日本の国際信用は大したものだった。自分のロンドン時代に、イギリスのある新聞人から「日本の外交には、信がおける。日本の外務大臣のいうことは信用できる」といわれて、有難い国だと感激したことがある。

→以下を読むと、有り難い国の国とは外務省だけのことを指しているらしいと分かって来ます。(太田)

 軍の堕落は、昭和の初め頃、その勢威が地に落ちて、何とかばん回しなければならないとして焦ったことから来ている。内部では下克上の風がおこり、外には、トラブル・メイカーになった。軍規の弛緩はひどいものだった。団匪事件の際の日本兵というものは、諸外国人を讃嘆させたものだったが、その時分のことを知っている外国人は、済南出兵の際の日本兵を見て、その変わりサマに驚いていた。」(272頁)

→前段は間違いであり、ロシア革命(及びロシア内戦)の後、ロシアの脅威が減殺したことも一つの大きな要因として、世論が軍縮を求め、軍もそれに従ったが、その後再びロシア(ソ連)の脅威が復活したことも一つの大きな要因として、世論が軍拡を求めたものの、それが思うに任せなかったことから、軍部内で下克上の風が起こったということだからです。
 後段は基本的にその通りです。この点は、軍部を厳しく糾弾しなければなりません。しかし、支那側にどちらかと言えば一方的に非がある済南事件(コラム#214、215)を例に用いるのでは、議論に迫力が出ないと言うべきでしょう。
 なお、下克上的な規律の弛緩は外務省でも見られたのであって、例えば、前出の白鳥のケースのほか、広田弘毅が齋藤實内閣の外相であった「1934年・・・4月17日、天羽英二<外務省>情報部長が中国大陸に対する外国の干渉を退けるという趣旨の会見を行った(天羽声明)。この発言を欧米諸国は「東亜モンロー主義」であるとして激しく非難し、外務省内部からも反発された。天羽の発言は広田外相名義で有吉明駐華公使に宛てた公電であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の重光葵であ<り、広田は関知していなかった>。・・・<しかし、>天羽や重光が処分されることはなかった」というケースをあげることができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 (太田)

 「日本の対満関係を困難にし、従って又満州事変の遠因ともなった一つの重要な因子は、何といっても張作霖を爆殺したことであると思う。・・・

→最近、ソ連陰謀説が登場している(コラム#1881)ことに照らしても、予断を持った議論をしてはいけないという良い見本です。(太田)

 満州事変が起きたとき自分は国際的に異端視されて大変な目に会わされると予言していたが、不幸にしてその予言が適中した。・・・
 満州事変を止めたかったら、なぜ金を出すことを拒まなかったのか。又軍の過激派の主な者を何人か馘にしたら、軍を反省させることも出来た筈である。・・・ところがそれだけの勇気がない。幣原さんもただ困っているだけ。・・・しかし満州事変について幣原さん以上に責任のあるのは若槻総理である。私が満州から帰って会ったときには・・・弱音を吐いているだけだった。・・・井上大蔵大臣<は、>・・・「軍と戦わなければならぬ」といっていた。彼の民政党内における地位も高まっていた。彼<は>殺された・・・。」(273〜274頁)

→満州事変は、国を挙げて実行すべきだったのにそうしなかったことこそが問題であると私は考えており、結果オーライであったと思うわけです(コラム#省略)が、勝手に関東軍が動いた以上は、関係者は処罰しなければならず、それをやらなかった点では林の批判に同感です。(太田)

 「広田<弘毅(注6)>は、・・・実に立派な男だった。・・・しかし、公人としては、罪が深い。自分がブラジルから帰った時、陸軍大臣現役制のことで文句をいわう(ママ)と思っ・・・たら、初めから、いや僕が悪かったんだといって、あやまられたので、それ以上議論もできなかった。」(274頁)

 (注6)「猪木正道<は、広田が外相時代の1937年に>、「駐日ドイツ大使<ヘルベルト・フォン・ディルクセン>に<駐華大使オスカー・トラウトマンを介して>蒋介石政権との>和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では真っ先に条件のつり上げを主張するなど、あきれるほど無責任、無定見である」とし、「一九三六年のはじめごろから、広田は決断力を失ったと思う」と評した。猪木の著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している。
 <また、その前、首相時代の1936年に、彼は>軍部大臣現役武官制を復活させた・・・
 <そして、戦後、>A級戦犯となり<文官で唯一>死刑となった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 上掲

→林が同僚たる外務官僚批判をやっている点は評価できます。(太田)

 (6)芳沢謙吉(1874〜1965年。アジア局長・フランス大使・外務大臣・ハノイ大使)

 「ここに書いてあることには大体同意見で、結構だと思う。」(275頁)

→林同様、これだけでアウトです。(太田)

 「外務省に入って、半世紀の間というもの、結局軍部のしくじりの尻拭いをやったことが一番多い。・・・一体歴史を見ても判る通り、・・・日本国民は好戦国民であった。」(275頁)

→私の言う弥生モードだけを見ている偏った日本認識です。(太田)

 「昔読んだ本でモダン・ジャーマニーというのに、「ドイツ人は結局ミリタリーネーションである」と書いてあったが、日本人もそうである。陸軍などは、ドイツが好きであった。プロシヤ精神に傾倒していた。そして軍人は、軍のみならず、国民を組織化し、立法府までそうしようというので、大政翼賛会みたいなものをこしらえたわけだ。そういうわけで戦争は強かった。極端まで行かなければ大成功をしていたであろう。日蘭会商でもまとめておけば、日本も米国に次ぐ強国になっていたかも知れない。しかし、どうにも戦争が好きであるため国を誤った。」(277頁)

→大政翼賛会は、戦後の事実上の自民・社会大連合の先取りととらえるべきであり、戦前は戦時挙国一致体制の所産であり、これが戦後は、外交安保の基本を宗主国に託した結果としての平時挙国一致体制へと衣替えをしたということであり、芳沢は大政翼賛会の実態がまるで分かっていません。自国について疎かった外務官僚としては驚くことはありませんが・・。
 また、戦後、少なくとも経済力では日本は米国に次ぐ強国になったわけで、ここでも芳沢、自国の潜在能力を理解していませんでしたね。
 なお、蘭領インドネシア当局と何とか折り合う、というのは一つの方策であったことは確かです。(太田)

 「平和条約が出来れば、結局再軍備をやるに定まっておるが、・・・天皇陛下の軍隊でなく・・・日本国民の軍隊であることにな<っても、>・・・強い軍隊をつくり得ると思う。・・・
 日本の再軍備については、第三次世界大戦があるからというのでなく、ただ列国並みにやっておくというだけのことである。」(277、280頁)

→戦前の日本が自由民主主義(的)国家であったことが、やはり分かっていないようです。
 なお、再軍備論者である点は評価できるものの、これが彼の恒久弥生モード的日本観といかなる整合性があるのか、いささか腑に落ちません。(太田)

 「太平洋戦争勃発について、ある実業家がこれは外交官の責任であるといっていたが、これはとんでもない見当違いである。東条は、天皇陛下を強要して、開戦のお許しをいただいたのである。これを止めようとしたら、天皇陛下でも危かったであろうと思う。」(279頁)

→1941年12月という時点に至って、しかも対英開戦ではなく、対米英開戦となったことに関しては、この実業家の言うことが正しく、芳沢は間違っていると言わざるをえません。
 また、東條についての芳沢の評価が軍部、就中陸軍への反感に基づく中傷であることは、改めて説明の必要はありますまい。
 そもそも、芳沢は、東條と昭和天皇との関係について全く無知であったとしか思えません。(注7)(太田)

 (注7)「木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。・・・東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている・・・
 日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、<東條が>首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F 前掲

 (7)「日本外交の過誤」に対する省員の批評

 「第一の責任者は軍であったのだから、そのことをはっきり出すべきである。
 日本の政治経済全般、世界の客観情勢と結び付けて考えなければ、日本外交の功罪についても結論は出せない。
 外務省の者は、経済についての勉強が足りなかった。調査の機能が弱かったことを反省しなければならない。
 外務省が、内政上の基盤をもたず、国民と遊離していたことがいけない。」
 (以下、更に2項あるが、省略する(太田)。)

→第1項は、民主主義下の対外政策のあり方、その中での外務省の果たすべき役割を考えるための教訓を引き出さなければならないというのに、問題を余りにも偏波にかつ矮小化してとらえています。第2項はその通り。第3項は結論はいいが、勉強が足らなかったのはむしろ軍事でしょう。第4項もその通り。
 本報告書の執筆者達より、外野の方が少しはマシであったという印象です。
 これは、恐らく、吉田茂の意図に縛られていなかったからでしょうね。(太田)
 
4 終わりに
 
 有田のような非武装中立論者が、戦前、外相を引き受けたことが私には理解できません。
 彼の考えが早期に形成されていたとすれば、外務省に入省したことすらおかしいと思います。
 有田のような人間は、さすがに戦前から戦後にかけての外務官僚の中では少数派であったでしょうが、そんな人間を許容し、外務省のトップにまで上り詰めさせたこと一つとっても、当時の外務省がいかに「国賊」的な国家機関であったかが分かろうというものです。

 この本の編者の小倉和夫(1938年〜。外務審議官(経済担当)・韓国大使・フランス大使)は、「吉田茂が考え抜いた日本外交の基本路線は、極めて現実的な考慮に基づくと同時に、過去の反省に基づく理念と理想をなおざりにしないものであった。現実的対応という合い言葉のうちに、理念と理想が失なわれるようなことがあれば、実はそれこそ、第二次大戦前の外交の誤りをくり返すことになりかねまい。」(20頁)と記していますが、一度腐ってしまった国家機関は、半永久的に小倉のような「国賊」的人物を再生産していくようです。
 
 最後に一言。
 この報告書を通じて、戦前から戦後にかけての外務官僚達が、いかに自国のこと・・正確には世界のこともだが・・が分かっていないかが判明したわけですが、にもかかわらず、その外務官僚達が、いわば、日本の縄文モード化のうねりの主たる担い手になったことは、何という歴史の皮肉でしょうか。

(完)