太田述正コラム#4374(2010.11.13)
<『吉田茂の自問』を読む(その4)>(2011.2.26公開)

 「日本が<ロンドン>軍縮会議から脱退した・・・。・・・
 太平洋戦争の一番の起源はここにある。アメリカは、最近の状況でも判るように、大きな軍備を長く維持出来る国ではない。軍縮条約が出来たら、軍艦を作らないような国である。条約をこわしたから、軍備を拡充して来たのだ。そしてどこの国の軍人でも、軍備が出来ると戦争をしたくなる。アメリカ海軍は非常に排日になっていた・・・。」(235〜236頁)

→堀田は録に歴史書を繙いたことがないとみえます。ブッシュ政権下における、3年間の海軍でのパイロット・飛行教官歴しかないラムズフェルト国防長官や全く軍歴のないウォルフォヴィッツ国防副長官、ライス安全保障担当大統領補佐官(以上タカ派)と陸軍の職業軍人あがりのパウエル国務長官(ハト派)との対立(コラム#190、1189。なお、#1201も参照のこと)は記憶に新しいところです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Donald_Rumsfeld
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Wolfowitz
http://en.wikipedia.org/wiki/Condoleezza_Rice
http://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Powell 
 なお、第二次世界大戦終戦直後にこそ米国は急速に国防費を削減したものの、1948年を底として、冷戦が本格化した以降は、その国防費は、インフレを除いた実質値で1948年の3〜4倍の水準で現在まで推移してきており、
http://www.mtholyoke.edu/~jephrean/classweb/United%20States.html
掘田の思い込みに反し、「アメリカは、・・・大きな軍備を長く維持出来る国」であったことを示しました。(太田)

 「日米交渉はやってよかったと思う。陸軍も最初は妥結を欲していた。アメリカが容れられないような条件を並べたからいけなかったのである。」(240頁)

→チャーチルとローズベルトが揃って日米交渉妥結を望んでいなかった(コラム#省略)以上、同交渉がうまく行くはずがなかったのであり、堀田は、自分の同時代の事柄についても表面的な動きしか見ていなかった、ということが分かります。(太田)

 「一体、大島<浩駐独大使>や白鳥<敏夫駐伊大使>は、政府のいうことを聞かないことが度々あった。・・大島や白鳥は、先方からイギリスと戦争する場合に日本がこの<三国同盟>条約によって参戦するかときかれて、然りと答えた。・・・訓令違反<だ。>・・・有田<外相>は、この時やめようとしたのを慰撫された。・・・<いずれにせよ、>大島や白鳥はやめさせられなかった。訓練違反の出先をやめさせるという方針<があったのにそれ>は、実行されなかったわけだ。」(238〜239頁)

→大島は陸軍出身
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9
ですが、白鳥
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
のように、外務官僚の中にも下克上を実践した者がいたことを覚えておきましょう。(太田)

 「南方方面では真珠湾攻撃前に一部戦闘を開始している。イギリスに最後通牒を出さなかったことも一つの手落であろう。」(240頁)

→珍しくもここはその通りです。もっと問題にされてしかるべき外務省の失態であったと言うべきでしょう。(太田)

 (3)有田八郎(1884〜1965年。外務省アジア局長・外相2回・戦後公職追放・衆議院議員)

 「自分の亜細亜局長時代の吉田<茂>次官などは、外国が協調しないから支那がのさばって来る。イギリスと手を結んで支那を押えるべきだという考えをもっていた。自分はその実現性がないと思って反対であった。しかし、吉田次官はケロッグブリアン協定の会議に代表として巴里へ行った内田さんにこのことについて英と話をするように訓令を与えた。ロンドンではこれに余り乗気を示さず、北京の現地でいかなる問題が協調してやれるかをお互いに研究して見ようというようなことでお流れになってしまった。」(244頁)

→吉田の指示は、日本のみならず英国の国益にも合致しており、有田は、支那の担当局長であったにもかかわらず、仕事をさぼったのは自慢できることではありません。
 外務省をあげて英国にあたっておれば、たとえ成功しなかったとしても、相手のホンネが露見した可能性が高かったはずです。
 いずれにせよ、問題は、吉田が、この働きかけに英国が乗ってこなかった理由について深く思いを致した形跡が無く、その後も対英(及び対米)宥和策に固執し続けたのは、不勉強のしからしめたところの、吉田の限界と言うべきでしょう。(太田)

 「<日独防共協定を審議していた>枢密院の委員会で石井顧問官が「自分は日英同盟締結の際命を受けて英国はそれまで同盟を裏切るようなことがあったかを調べさせられた。そして調査の結果英国のレコードはきれいであると報告したことがある。一体今度の独逸は信を置けるか」と聞かれた。自分は信用がないともいわれないからヒットラーは裏切ることをしないと思うと答えておいた。」(245頁)

→ここでも有田は無責任であり、分からないことは分からないと正直に答えるべきでした。その後ヒットラーが独ソ不可侵条約を反故にしたにもかかわらず、こんな恥ずべきエピソードをわざわざ語るとは、有田はまことにおかしな人物です。(太田)

 「自分は、亜細亜局長時代から中国共産党の動きには、注意していた。・・・白鳥は、スウェーデンから、「ソ連を早くたたかなければいけない、それについては、支那の問題は早く解決し、英米とも協調しなければいけない」という趣旨の意見書をよこした。自分は、すぐたたくというのは過激だが、何か手を打つ必要があるとは思っていた。それが防共協定の形になったわけだ・・・。」(245頁)

→白鳥は陸軍の皇道派と同じく「赤露」巻き返し論者であったということです。
 いずれにせよ、これだけおかしな有田ですら、陸軍の統制派同様、「赤露」封じ込め論者であったことは、何度も繰り返しますが、横井小楠コンセンサスがいかに当時の日本の指導層に浸透していたかを示して余りあるものがあります。(太田)

 「支那事変勃発以後支那の各地で日本人による排英運動が盛んに行われた。軍はイギリスを支那、アジアから追い出したいという気持だった。当時東京でクレーギー大使と会談を行った際には、イギリスは当方の持ち出した原則の点は皆きいた。先方としては、条件としてではないが、日本の主張をきく代りに排英は止めて貰いたいという気持だった。ところが加藤外松(ママ(太田))が愈々細目協定の交渉に入るとイギリスの態度は硬化して来た。これにはアメリカの掣肘もあったろう。しかし、支那各地の排英はその後も止まらなかったのだから、どうにもならない。当時の軍の出先は全く不随意筋のようなもので軍の中央もこれを動かせなかった。」(246頁)

→在支那日本人・・その背後には本土の日本人がいる・・の排英感情は正当なものであり、それに陸軍、とりわけ在支陸軍が同情的であったのは当然です。だからこそ、クレイギーはこのような声に誠実に向き合ったのです。有田は一体どこの国の外務官僚なのでしょうね。やりきれないのは、恐らく当時の外務省で有田は決して珍しい存在ではなかったであろうことです。(太田)

 「外務省は内政的基盤を持っていなかったことが非常な弱みであったと思う。この点は、軍は違っていた。ロンドン条約前後から大きな金を使って軍備の必要を強調し、又いわゆる生命線論を宣伝した。陸軍は在郷軍人会のような組織を持っていた。これをどの程度に使ったかは知らないが満州事変の直前に在郷軍人大会で南陸将が満蒙問題解決のためには断乎として立たなければならないと演説したこともあった。軍は又御用学者も大分もっておった。・・・当時外務省の者は、小村さん以来の伝統で、外交は外務省に任せておけという考え方で国民大衆の上に立ってやる点にかけていた。それには矢張り金が要る。・・余り金をとるのは嫌だという考え方では駄目だと思う。」(247頁)

→一見正論を吐いているようですが、愚昧ゆえ外交の足を引っ張る日本国民を自分達のような人間が指導してやらなければならない、と有田は言っているに過ぎません。有田は、当時の日本が民主主義(的)国家であることを全く理解していなかったようです。(太田)

 「自分は<1948年刊の自著>に書いてある新憲法第9条に賛成の意見は、今でもよいと考えている。結局米ソ戦というものは無いと考えている。・・・これに関連して自分は・・・<日本は>永世中立<国になるべきだと>思う。・・・米国は、着々軍備を整えつつあり、然も日本の戸口まで来ている。戸をたたけばすぐ入ってこれる状態にあるわけだ。・・・日本が中立宣言をするとすれば、アメリカはこれに保障を与えるかも知れないが、ソ連中共は、保障しないかも知れない。しかし、それでも構わないのである。ソ連が侵略して来たら、アメリカがやるということならそれでよい。こういう考えを自分が前に発表したのは、一昨年の暮頃、対日講話の問題について国務、国防両省間の意見の対立が伝えられた。国務省の方は、沖縄や小笠原だけ押えておれば、日本内地からは兵をひいてもよいというのに対して国防省が反対しているということだった。この間の調整を計る一案として考えて見たわけである。・・・

→ここは、批判するのもばかばかしい妄言です。
 吉田ドクトリンの社会党バージョンを見事に先取りしていますね。(太田)

 自分は、再武装ということについては、軍国主義の再建を恐れる。日本の民主化などについてマッカーサー元帥のいっていることは賞めすぎで、日本の変化は、ほんの薄皮だけであると思う。又一旦ああいう憲法を造った以上、そう易々と変えるべきではない。・・・

→要するに、有田は、戦前、民主主義が大嫌いであり、世論を常に意識して動いたがゆえに外務省と衝突することが多かった軍部も大嫌いであったところ、戦後においてもその考えを貫いた、ということです。(太田)

 第三次世界大戦は起らないであろうと考える理由は、結局ソ連は今日まで力を用いないで勢力を拡張することに成功して来ているから、・・・この際世界戦争というような大冒険をする必要を認めていないであろう、ということにある。・・・
 中共が朝鮮動乱に介入して来、又現在伝えられているような大損害を蒙りながらも、これを継続している理由は、判断に苦しむ。・・・ソ連の思う通りに中国を引っ張って行っているということだろうか。

→支離滅裂な言ですね。
 有田は、ソ連による間接侵略も、北朝鮮や中共といった代理人による侵略も無視しようとするから支離滅裂になってしまうわけです。(太田)

 中共政権が内部からくつがえされるとか、あるいはソ連から離れるということは近い将来には実現出来ないことではないかと思う。・・・中共とのチトー化の可能性ということには、疑を持っておる。

→有田は、現実から目を逸らせているのですから、予想がことごとく外れるのは当然です。1965年に亡くなる前に、有田は中ソ対立
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%AF%BE%E7%AB%8B
の顕在化を目の当たりにすることになります。(太田)

 再軍備の問題についても、新憲法の行き方が現実の事態に適用困難になったからといって、すぐこれを改正しようとするような考え方はとらない。出来るなら憲法を改正しないで、その許す範囲内で、例えば警察予備隊の増強等のやり方を研究して見てしかるべきではなかろうか。再軍備するとなると、最初は小規模のものでよいということであっても、5年、10年経つと、それでは足りないということにあり、大掛りのものに発展する可能性がある。

→愚民観に基づく反民主主義論の典型です。(太田)

 第三次世界大戦を回避するために民主陣営の武力を増強しなければならない、それには日本としても出来るだけ協力すべきである、ということも考えられるが、何も日本がいわゆる蟷螂の斧をたてなくても、アメリカは勝つと思うし、予備隊の増強程度で勘弁して貰えたら、それが一番いいと思う。

→属国、しかも卑怯な属国であり続けようというわけです。(太田)

 ソ連が日本に対して侵攻する可能性についてのマッカーサー元帥のアメリカ上院における証言は、私がかねがね考えていたところと同じである。マッカーサー元帥は「アメリカの陸海軍は日本周辺において優勢を保持しているから、ソ連が日本に侵攻する可能性はない。例えば、北海道の一部に一時的にブリッヂヘッドを作ることは出来るだろうが、全体を制圧出来なければそんなことをやっても意味がない」というような趣旨であった。・・・

→そもそも反民主主義者である有田には、反「赤露」感情はあっても、親米感情もまたないようですね。彼には、戦前の日本がどうして反「赤露」であったのかという肝腎のところが理解できていなかったのでしょう。(太田)

 日本の安全のためには、どうしてもアメリカの力によらねばならないという結論に達したならば、そのための日米間の協定は、期間を長くした方がよいと思う。アメリカの政権が変って政策にも変化が起り、日本から退いてしまうというようなことのないように縛っておいた方がよい。」(248〜253頁)

→有田には、このような自発的属国戦略が中長期的に日本を腐らせてしまうであろうことなど全く予想外だったのでしょうね。
 もはや言葉を失います。(太田)

(続く)